僕は近年小説を読むことができなくなっている(映画を観ることもできなくなっている)。
僕は本を読むことが好きで、毎日2,3時間は読書時間に充てているのだけれども、読むジャンルはノンフィクション・ルポルタージュ、人文科学系のものばかりで小説は殆ど読まない。
若い頃は逆に小説ばかりを読んでいた。好きだった作家の本は未だに残している。
どうして小説を読まなくなった(読めなくなったと表現する方が正しいのかもしれない)のか。老化現象のひとつなのだろうか。
ある小説に展開される世界に没入できなくなったのは事実である。
物語の世界に素直に入っていけなくなったのだ(だから映画やドラマも観なくなった)。
瑞々しい感性を失ったとも言える。
このままではいけない、感性が錆びついてしまうと思い、これまで何度か過去に読んで感銘を受けた作品の再読を試みたことがある。福永武彦、三浦綾子、遠藤周作、堀辰雄、山本周五郎、加賀乙彦・・といった日本文学を中心としたラインナップ。
結果はダメだった。どうしても読み進めることができなかった。
最近登場した作家のものについては書店で手に取ることすらない。
小説を読めなくなっても読める、唯一の例外が村上春樹である。
最新作の『騎士団長殺し』も文庫版が出るのを待ち続け、それが出版されるとすぐに全巻購入し先日読了したところである。
彼の作品は全く抵抗なく読み進めることができる。
不思議なことだ。
村上作品はどの長編小説も説話類型が同じである。
同じだからと言って、つまらないわけではない(全作品を読んでいるのだから面白いに決まっている)。
村上作品は僕の心の奥底にある何かを揺さぶるのだ。それを言葉で説明することは僕にはできない。
僕が小説に没入できなくなったのは、それを読むことで物語の世界に生きることに喜びを見出せなくなったからである。
もちろん、現実の社会に生きていて、そこで展開される様々なことが掛け値なしに楽しいからというわけではない。この社会に現実に起きていることに接しても気鬱になるばかりである。
だからといって、物語の世界に逃避する気にはなれない。
そうするには、僕は歳を取りすぎてしまった。
今となっては、小説・物語を貪るように読んでいた若い頃を懐かしく思う。
未熟で、世間知らずで、自分が何者か分からなくて、もがいていたあの頃。
懐かしくは思うけれども、もう二度と戻りたくはない。
今の自分が完全に成熟したとは全くもって思わない。
ただ、あの頃よりはちょっとだけ世間ずれして「大人」になっただけである。
小説を読まなくなったこと、物語をあるいはフィクションの世界を特に求めなくなったということは、「大人」になったことなんだ、と今の段階での自分を納得させることにしておこう。
「大人」になることは決して哀しいことではないと、自分自身に言い聞かせて。