日々を「機嫌よく」暮らしていければ、それに越したことはない。
不機嫌に生きていると、様々な悪しき副産物を生む。
機嫌よく生きるためには、大層な条件が必要なわけではない。
初出2019/2/12
僕は毎日を機嫌よく過ごしたい。
今の僕の生活の指針はこれだけである。
機嫌よく過ごすために必要なことはそれほど多くない。
嫌なことは嫌と言う、嫌なことはできるだけしない。世間の人を判断する評価基準に踊らされない。必要以上のカネを求めない。まあ、大体これくらいである。
僕は若い頃、嫌なことを嫌と言えず、嫌なことを我慢することが成長につながると思い違いをしていた。世間の評価を随分と気にしていた。人並みにカネを追い求めていた。
結果、僕はその頃は不機嫌に生きていた。
嫌なことを嫌と意思表示をし、他者からの評価を気にせず、カネを追い求めなくなったら、それだけで毎日を機嫌よく過ごせるようになった。
これはこれでいいことではある。
しかし、物事には表と裏がある。メリットとデメリットがある。
僕が機嫌よく生きられるようになったら、その代償として「もう終わっている人間」扱いされるようになった。これはこれでちょっとだけ悲しいものがある。世間の評価なんてどうでもいいと独り強がってみても、僕は社会の成員なのだから、その成員としての存在価値を低く見積もられるとモヤモヤとした気分になる。
機嫌よく過ごせることの楽しさと、モヤモヤした気分とのせめぎあいの中、僕は日々を過ごしている。
もうひとつ、「社会の片隅」で機嫌よく過ごすというところがミソである。
これは僕の居場所をこの社会のどこかに見出すという意味合いである。ひっそりと息を潜めて自分の存在をかき消すということではない。メインストリートではなくてもいいから、裏道や路地を堂々と歩くといったニュアンスである。
多数派に属さず、少数派として生きるということでもある。
少数派に属していると、なかなか機嫌よく過ごすことは難しい。なのに、あえて少数派でありながら機嫌よく生きたいという僕の意志の表れである。
僕はもう社会のメインストリームの中に身を置けないことに一抹の寂しさを覚えるけれども、機嫌よく生きるためには仕方がないと諦めている。
無理をしてマジョリティに属そうとすると、きっとつまらなくなる。少しばかりの社会的地位を得るために、つまらない日々を過ごすことになるなんて我慢できない。
やはり僕はこれからも社会の片隅で機嫌よく暮らしていきたい。
面白くて楽しい日々を過ごしていきたい。
こんな贅沢なことはない。
ほかにはもう何も望まない。