希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

僕は自分のことを運がいいと思い込んでいるという件

僕はこれまでにまわり道をしたり寄り道をしたりの人生を送ってきた。

大半の期間がビンボー生活だった。

自分の思うようにならないことばかりだった。

でも、僕は自分のことを運がいいと思っている。

 

僕のこれまでの人生で「ヤバい」と思ったことは何度もある。

フリーランスの時にうつになり多くの顧客が離れたとき、神戸の震災に遭ったとき、小学生の時に不登校になったとき、等々。

危機的状況に陥っても、そこから先の奈落の底には落ちることはなかった。

すんでのところで踏みとどまったのである。

なぜ、そうなったかといえば運が良かったからだとしかいえないのだ。

 

人生で起きる様々なことのすべてを運の良しあしで決めることは良くないと言われる。

運の良しあしで物事を判断することは、責任回避の態度であり、成長にはつながらないとよく言われる。

確かにそうだろう。

成功や失敗の要因を「運」の一言で片づけてしまったら、進歩も発展もない。

悪い意味での他力本願になってしまう。

 

しかし、僕は多くの物事は運で決まるのではないかと思っている。

僕の経験した事柄(大したものではないけれども)を通じて得た肌感覚である。

いくら努力し頑張っても結果がでないことがあり、たいして努力もしていないのに好結果を得られることもある。これは誰もが経験していることではないだろうか。

僕は世間的に成功した人がその要因を尋ねられて「運が良かっただけ」と言う人に好感を持つことが多い。その人は謙遜しているだけなのかもしれないが、自分の資質や努力に成功要因を帰結させずに、ただ運が良かっただけと言いきるところに共感するのである。

一方で、恵まれた状況にいる人がその要因を自分の能力や努力のみに求める態度に卑しさを感じるのである。その人の器量のなさをどうしても感じてしまうのである。

 

僕は若い頃、自分はつくづく運がない人間だと思い込んでいた節がある。

大学入試のときに共通一次試験で失敗したのも、最初の勤め先に馴染めなかったのも、自分に運がないからだと言い逃れをしていた。

ところが、この歳になってこの頃、自分の人生を振り返ってみると、「俺ってそこそこ運が良かったんじゃないか」と思えるようになってきた。

行き当たりばったりの生き方をしてきても、貧困に陥らずに、何とか生活を送ることができている。

こんなに幸運なことはない。

しみじみとそう思っている。

 

これから先の僕の人生には何が起きるか分からない。

良いことも悪いことも起きるだろう。

どんな困難が我が身に降りかかろうと、何とかなる、と楽観的にとらえている。

僕は運がいい、と思い込むことによって。

根拠はないけれども、ただ何となくそう思っている。

根拠のない思い込みほど、強いものはない。

 

 

 

 

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