自分の知らないことを学ぶことは楽しい。
学校を卒業して働くようになってから、ようやっと僕は学びの面白さに気付いた。
遅くはない。
初出 2018/12/26
学ぶことと「勉強」は完全に同一なものではない。
勉強にはどうしても強制というニュアンスがつきまとう。大雑把に言えば、楽しんでやるのが学ぶことで、いやいやながらもこなすのが勉強である。
僕は子供のころ、勉強が嫌いだった(今でも嫌いだ)。中学校までは予習や復習を全くしなかった。一方で百科事典を読んだり、学研の学習や科学を読んだり、少年少女文学全集を読んだりすることは好きで、学校の勉強そっちのけでそれらを貪るように読んでいた。この世には自分が知らないことが無数にあり、それらの知らないことを知るということが快感だったのだ。
学校を出て、働くようになってから僕は学ぶことを一旦やめてしまった。
仕事に関する「勉強」はしたが、当然にそれは楽しいものではなかった。仕事に関係する勉強は業務の一環である。楽しいはずがない。
仕事に面白さを感じられず、人生に迷っているときに自己啓発系の著書に手を出したことがある。やはりその手の著書は僕にとっては面白くなかった。
そのような20代、30代の頃が僕にとっての暗黒時代だった。学ぶことの楽しさを忘れ、日々流されるように過ごしていて、そのくせ焦りばかりが募っていく。
40代になって、開き直って「真っ当な生き方」を諦め、ダメ人間の道に入ってから、僕は学ぶことを再開した。学んだことが自分の経済的成功や社会的地位を獲得することに直結しないことがまたいいのだ。ただ楽しいから学ぶ、ただ面白いから学ぶ。実利に結びつかなくても、ほんの少しでも人間的な成長が叶えばそれでいい。
「学ぶこと」とは本来そういうものだったはずた。
この世には僕の知らないことが無数に存在する。このことがワクワク感を増すことになる。自分には知らないことが山ほどあることを知ることが教養の入り口である、と喝破した人(誰だか忘れた)がいるけれども、僕はその考え方に頷く。
社会の成り立ちとか人の営為の不可思議さとかはいくら学んでもその全容を知ることはできない。正しい答えや正解なんてあるようでないものだ。
ある物事を学ぶということは、正解を知ることではなく、ものの見方を知ることだ、と僕は思っている。
僕はずっと「大人になることはつまらない、いいことなんかないなあ」と思ってきた。
自分の力でカネを稼ぎ、生活を成り立たせることができるようになると、自分も大人になったなあと自己満足に浸ることはできる。しかし、それだけではなんだかなぁという心持になる。
真っ当な生き方をしていれば、それだけでこの社会ではマジョリティとなり流れに乗ることはできるけれども、僕はそのこと自体に息苦しさを感じてしまう質の人間だ。
こんなダメ人間のマイノリティに属する僕が「大人っていいなあ」と思えるようになったのは、学ぶことが楽しくて面白いという感覚を得ることができるようになったからである。言葉にはできないけれども、学びの楽しさは大人と子どもでは異なるところがある(共通点も多々あるけれども)。
もしかすると「学びの楽しさ」を知るということは、大人の贅沢な楽しみなのかもしれない。
僕はこの大人の贅沢をずっと満喫していきたい。