希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「善意」からの正しい行いほど厄介なものはないという件

世の中のほとんどの物事は「善意」から生まれている。

犯罪行為や故意に人を陥れるようなこともあるが、これはレアなものである。

僕たちは大抵は善意から発した言動については批判を許されないことになる。実はこのことが厄介なのである。

 

ある言動が善意から生じ、しかもそれが「正しい」ことならばそれを受けた人は口を閉ざさるを得なくなる。あるいは時として起こる「善意の押し付け」に対しても、それが善意から発したものであるがゆえに、抵抗し押し返すことが困難になる。

 

僕が最初の勤め先を辞めようとしているときに、周囲の人たちは善意からそれを押しとどめようとした。あるいは僕が独立しようとするときも同様に善意からそれを阻止しようと試みた。

そのときの周囲の人たちの「善意」に裏があったとは思わない。本当に善意から僕に忠告したのだろう。

僕は元来がひねくれ者なので、それらの善意の思いを受け流して、自分の好きなようにしたが、根が正直で真面目な人ならば、その善意に応えようとするかもしれない。

 

「動機が善ならば、結果は問わない」。

これはこの国での古来から続くメンタリティである。

典型例として、戦前の軍部の行いがある。

動機が善であれば(これも独善的なものであるが)、指揮命令系統を無視しても、あるいは時として天皇大権を犯してもかまわない憲法違反を犯してもかまわない、というメンタリティ。

昨今は企業犯罪の多くにこのメンタリティが潜んでいる。

 

僕は以前にこのブログで困った人が目の前にいたら「おせっかい」をしようと書いたことがある。困った人を目の前にして、自分のできる範囲のことで手助けをする共助も大切だと言いたかったのだ。この考えは今も変わらない。

ただ、「おせっかい」というものはほとんどが善意から生じるものだ。誰かにおせっかいをするときには、それが善意の押し付けになってはいけない。このことに十分留意する必要がある。

おせっかいをすることが自己満足になってはいけない。

さりげなくおせっかいをかけて、そして風のように去っていく。そうでないと、おせっかいの意味がない。

 

そして、時に「善意」と思っているものが、実は自分のエゴから生じている場合があることも忘れてはならない。

相手を自分の思うがままにコントロールしたいとか、あるいは自分の言動によって自己利益の獲得を図るとか、そういったことも多々あることを心しておく必要がある。

それと、善意によってなされた言動によって引き起こされた結果の責任回避の言い訳にしてもいけないと思う。

 

人の善意とは厄介な代物で、取り扱いに注意を要する。

無警戒に人の善意に頼ることは無防備で危険地帯に潜入するようなものである。

安易な善意からのおせっかいは暴力に変わることもある。

何とも世知辛い世の中である。

しかし、僕たちはその世知辛い世の中を渡っていかなければならない。

とはいっても、究極のところでは僕は人の善意を信じたい。