希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「庶民のリアリズム」なんてもはや幻想に過ぎないのではないか、という件〈再掲〉

権力者が変わろうとも自分の生活を成り立たせるために知恵を絞り、したたかに生きる、という庶民像は過去の遺物なのかもしれない。

均質化され、為政者に都合よくコントロールされた烏合の衆、それが実像なのかもしれない。

 

初出 2018/11/22

 

僕はこのブログを始めたころに、僕の行動規範や行動の源泉は「庶民のリアリズム」であると度々書いていた。今もこれは変わりがない。

しかしながら、この「庶民のリアリズム」というものは実は幻想にすぎないのではないか、と最近思えて仕方がないのだ。

中間共同体が崩壊し、個人の自己決定・自己責任ばかりが問われる社会になっているからである。

 

高度経済成長期の頃まで、社会全体は貧しかった。社会保障制度や公的なセーフティネットは今よりも脆弱であった。なればこそ、貧しい庶民は助け合ってどうにかこうにか生活を成り立たせていた。迷惑をかけあって、その迷惑を拒絶せずに助け合っていたのだ。この迷惑のかけあいが庶民のリスクヘッジだったのである。

 

「庶民のリアリズム」とは、為政者の首がすげ変わろうとも社会の変動があろうとも、それらに影響されずに友人知人や近隣の人たちと「迷惑をかけあう」というリスクヘッジを行って自分の生活を守るということ、と僕は考えている。

ところが、その前提となる「迷惑のかけあい」が忌避されるものとしてとらえられるようになっている。カネを持たない庶民にとって人とのつながりがどれほどあるかが生命線である。にもかかわらず、その生命線が絶たれようとしているのだ。

 

庶民のリアリズムに基づいた庶民像と対極にあるのが「孤立した群衆」である。今は多くの人たちがこの孤立した群衆になってしまっている。

「孤立した群衆」が大量に生み出されたのは社会の病理現象ではない。戦後のこの社会が目指してきた「個の確立」や「自己決定・自己責任」的な生き方、陋習にとらわれた中間共同体からの離脱といった目標が達成された帰結として孤立した群衆が大量発生したのである。

資本主義体制下では(特に新自由主義的な考えのもとでは)個人はモナドとなり、他者との紐帯が失われてしまうのだ。

 

弱い個人が孤立するのは最悪の生存戦略である。多くの人たちはこのことを頭では理解していても、何をどうすればいいのか分からない状態に陥っている。

いまさら「連帯」といってもその具体的な手立てが分からない。よりどころとなるべき様々な共同体は絶滅の危機に瀕している。

人は安心して我が身を置ける「居場所」がないと不安感が募る。

 

庶民のリアリズムなんて幻想にすぎないと述べたが、それを幻想にしない営為を続けるしか閉塞した状況を打破する手立てはないように僕は思う。

ひとつの方法としては、人とのゆるいつながりを作るということだ。また、自由なゆるいつながりをベースとした疑似共同体を作るという手もある。

あちらこちらで若者を中心としてこのような疑似共同体を作ろうという試みがなされている。この動きはとても良いことである。有効な生存戦略となりうるものである。

庶民のリアリズムなんて幻想だと切り捨てずに、再びそれを見直す試みを続けることこそが孤立から逃れられる術である。