一時期大阪で権勢をほしいままにしていた某氏や自民党の政治家が生活保護に関して「本当に困っている人」だけを救済すべきだとの発言を行っていたことがある。
一見もっともらしい発言ではある。
しかし、僕はこの発言に強い違和感を抱いている。
まず、「本当に困っている」か否かの判断基準が行政による恣意的なものになるおそれがあるということだ。確かに生活最低基準は定められているが、これをもって本当に困っているか否かの絶対的な基準にするには無理がある。実際問題として、貧困線以下の生活を余儀なくされている人たちが、生活保護の申請をしても窓口で「水際作戦」にあって生活保護の受給を拒まれるというケースが後を絶たない。
次に行政の恣意性により、「本当に困っている」と認められない人たちには一切の支援がなされないということにもなる。本当に困っているか否かのラインをいつでも行政はコントロールできると、時々の世論や財政状況や首長の政治姿勢等によって貧困のラインがかさ上げされてしまい、救済や支援の網からこぼれる人たちが続出することになる。
貧困対策の類型として、防貧的なものと救貧的なものがある。
防貧対策とは病気や失業等によって生活が困窮したときに、貧困ラインに陥らないようにするために金銭給付と職業訓練等を施し、その時期の生活保障をし、短期に元の生活レベルに戻すような施策である。
一方、救貧的な対策とは貧困ライン以下に落ちた人たちに最低限の給付を行うものである。
後者はどうしても給付が長期に及ぶことになる。障碍者や高齢者については仕方がない面もあるが、稼働年齢の人たちについては給付によるスティグマを刻み付けたり、勤労意欲が減退してしまい、今置かれている状況から抜け出せなくなる危険性がある。
また、別の類型として、「選別主義」と「普遍主義」というものがある。
選別主義は、救済に値するかどうかを厳しい基準で選別し受給者を限定し、普遍主義は一定の生活レベルに達していない人たちすべてに人に値する生活保障を実現するというものである(かなり大雑把な定義ではあるけれども)。
この国の社会保障、特に生活保障の施策は「選別主義」的でありかつ救貧的対策がメインストリームになっている。
言い換えれば、生活が二進も三進もいかなくなってようやく最低限の給付がなされるというものである。しかも煩雑な手続きと厳格な審査を経てようやっと給付を受けることができるのである。
しかも、救貧的な貧困対策は元々19世紀末から20世紀初頭に当時の先進資本主義国で採られていた施策で、底辺層の労働者以下の給付水準で事足れりとする「劣等処遇」の原則が貫かれていたものである。
現在の生活保護についても、この劣等処遇で十分だとの認識が残っている。繰り返し巻き起こる生活保護バッシングや保守系政治家の暴言(僕はこの手の政治屋は本当の保守ではないと思っている)はその証左である。
僕は生活保障の施策は「普遍主義」でかつ「防貧的」対策に重きを置いたものに転換する時期に来ていると思っている。
実はこれらの施策の方が長期的視点からみると、財政負担も重くはならない。
生活に困っている人たちを「本当に困っている」状況にさせないための支援や給付にするのである。
生活保障によって人としての尊厳を損なうようなことがあってはならない。