希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「優秀な学生がいない」という物言いは、会社の驕りであるという件

ここ数年、新卒者の就職活動に関する報道でよく見聞きするのは人事担当者の「優秀な学生がいない」「優秀な学生がわが社に来ない」というコメントである。

僕はこの言い草に強い違和感を覚える。

 

まず、「優秀な学生」を決める判断基準がおのおのの会社が決めるローカルなものに過ぎないということだ。あくまで相対的なもの仮初のものに過ぎないのである。

会社の論理とは、社員というものは会社の利益を生むためのみに働き、組織のきまりごとに従順に従い、組織の和を乱さないというローカルルールに則ったものであるべきというものだ。

目先の利益に捉われ、近視眼的な評価基準しか持たない会社や人事の目に適う人物がこじんまりとしたものになるのは自明の理である。

 

また、ある人が本当に優秀か否かという判断は、学卒年齢の22,3歳の時点でできるものではない。できるとすれば、潜在能力がどれほどあるかということを予想するだけである。この予想はそうそうは当たらない。人はそれほど単純なものではない。

人それぞれの持つ器量や資質はある程度の年齢にならなければ推し量れないものである。

それに大きな器量を持つ人が会社の枠を超えてしまうことが往々にしてある。実際に器の大きい人は会社のせせこましい度量衡にはなじまないものなのである。

 

それともうひとつ、「優秀な学生」が来ない会社にはそういった人物を引き付ける魅力に欠けているのだ。そういった魅力に乏しい会社は自身のことは棚に上げて、すべての責を学生に負わせることによって、人事担当者の保身・責任逃れをしているのである。

このような会社は業種や規模の大小は関係ない。誰もが知る大企業・有名企業にも魅力に欠ける会社は存在する。

 

ここで、優秀な学生とはどのような人物のことなのか。

この定義はなかなかに難しい。

昨今の風潮では、「グローバル人材」と言われる人のことを指すのだろう。

しかし、このグローバル人材の内実は、会社の利益を出すことに長けていて、会社の命令となれば世界中どこへでも赴き、根無し草になることも厭わないという人のことである。よくよく考えればこれらの条件を満たせば、取り換え可能な労働者を意味することになる。これで本当に優秀な人物だといえるのか、僕は疑問に思う。

優秀な学生(人物)とは取り替え不可能な何かの資質を持っていることだと思う。

社会を少しでもより良いものに変えようとする意志を持ち、大勢に流されず我が道を行く気概を有し、私利私欲に走らない人物が本当の優秀な人だと思う。あくまで私見ではあるけれども。

このような優秀な学生・人物がひとつの会社の枠に入るわけがない、とちょっと考えれば分かる話である。

 

会社が、人事担当者が「優秀な学生がいない」「優秀な学生が来ない」という言葉を吐くことは、大いなる思い違いであり、驕りである。

優秀な学生なんてあちこちにいる。

そんな優秀な彼ら彼女らが、ただ単にしょーもない会社は無視している、というただそれだけのことである。

僕はそんな学生が増えることを密かに望んでいる。