僕は今、仕事のひとつとして進学塾の講師をしている。
担当している受講生はそれほど多くはないが、それぞれにタイプが異なっている。
何も言わなくても自発的に学習に取り組む子もいれば、いまひとつ意欲がない子もいる。
塾のできることは限られている、と僕は醒めた目で見ている。『ビリギャル』のように低学力の状態から難関校に短期間で合格させるなんてことはレアケースである。
勉強ができる子は元々できる(遺伝的な要因が大きい)、できない子にはなかなか打つ手がない、というのが厳然たる事実である。
元々できる子への対処は簡単である。学力がレベルアップするように仕向けるだけでよい。
学力がイマイチな子に対する対処法は難しい。学力を基礎レベルから徐々に身に着けさせる教材や教え方のノウハウがあるにはあるけれども、それは学習意欲があってこそのものである。この「意欲」というものが曲者なのである。これは本人の内面から湧き出るものであって、外部から促せるものではない。「やる気スイッチ」はどこで起動するのかは誰にも(本人でさえも)分からない。
僕は意欲を湧き立たせる明確な手立てはないと諦めていて、できるだけ本人のわずかに残っている意欲を削がないように気を配るようにしている。
僕たちは前述のような学習意欲のない子や職場でやる気を見せない社員に対してついつい「やればできる」といった類の言葉をかけがちである。
それは意欲が外部からの働きかけによって起動するという思い込みによるものである。
ある種の精神主義である。
この「やればできる」といった言葉の相手への投げかけは諸刃の剣である。
時には相手の意欲を喚起し、学習態度や勤務態度が改まることがある。
しかし往々にして、相手を精神的に追い詰めることもある。
大抵の場合、本人にもどうして自分に意欲がわかないのか分かっていない。ほとんどの人はそうした自分の意欲のなさに引け目を感じている。やる気が出ない理由はひとつだけではなく、様々な複合的な要因が絡まりあっていることが多い。
そのように悩んでいる人に対して、バカの一つ覚えに「やる気を出せ」とか「やればできる」といった励ましを与えるのは愚かしいことである。
人のやる気や意欲は取り扱いがセンシティブなものである。
それらを人の評価軸に据えることは慎重にならなければならない。
学校における内申書や会社における人事考課でこれらの情意評価を重く見るのはいかがなものか、と僕は常々思っている。
なかなか結果を出せない相手に対して「やればできる」という言葉を投げかけるのは多くの人たちにとって容易いことである。害のない言葉と受け止められているきらいがある。
しかし、実は「やればできる」といった言葉は毒を含んだものである、という自覚をもっと持った方が良い。やる気や意欲といったものは他人が引き出すことができるはずという思い込みを捨て去った方が良い。
人の心なんてそう容易く変えることなんてできないのだから。
人の心は単純なものではなく複雑系そのものなのだから。