ヒトは弱い生き物である。
この弱さを既定事実としたうえでシステム設計をしないと、社会は成り立たない。
弱者を置き去りにするようなシステムを採用した共同体は近い将来に必ず衰亡する。
初出 2018/9/13
僕たちは幼少時から様々な刷り込みをされている。
「強くなれ」
「早く自立して一人前となれ」
「人様に迷惑をかけるな」
「人に頼らずに一人で生きていけ」
・・といったように「強くなければ生きてはいけないぞ」と思い込まされる。
今のこの社会の空気は「弱い」ことを罪悪視している。人は誰もが弱さを抱えていて、それをどうにか手懐けながらどうにかこうにか生きているということを忘却の彼方に追いやっている。
強さに対する単純な信奉ほど怖いものはない。
強いことが正義であり善であるとされる社会はディストピアである。
一見そこそこ強そうに見えてこの社会の中で真っ当に生きている人たちも、ちょっとしたきっかけで弱い立場に陥ることになる。
病気や失業・勤め先の倒産やリストラ等によっていともたやすく弱者に転落する。
本当に生きやすく健全な社会であるかは、その社会の中で最も弱い人たちをどのように処遇しているかで判断できる。
弱者を排除し棄民化しているような共同体はたとえどれほど経済的に豊かであってもまともな共同体ではない。
社会ダーウィニズム的な価値観に覆われた社会では「強くあれ」というプレッシャーが成員にかかり続ける。
競争に勝ち残った者だけが果実を享受できる。役に立たないと思われる人たちに居場所はない。一旦、「負けた者」とか「弱者」とのレッテルを貼られると、浮き上がる手立てを奪われてしまう。このような社会は地獄である。
資本主義体制は「カネを稼ぐ能力がある、強者」が利益を独占するシステムである。経済成長に大いに貢献する者が強者となり正義となる。
資本主義が内包する価値観を盲目的に信奉すれば、先ほど述べた社会ダーウィニズム的な価値観を良しとするディストピアとなる。
多くの人たちは自分の弱さを隠して、表面上は強い自分を演じ続けている。
助け合い、「共生」を密かに望みながらも、そんなことを一旦言挙げすると競争社会から脱落するのではないかという恐怖心を抱いている。その人々の持つ恐怖心を原動力にして資本主義体制は維持発展し、経済成長至上主義イデオロギーが拡散していく。
本当に生きやすい、健全な社会とは「強くなくても、弱くても、後顧の憂いなく生きていける」社会である。
人の持つ本質的なもの、つまり弱さから目を背けずに、弱さを肯定した人間観が根底にある社会がまともで健全な社会である。
ある社会の中で最も弱い立場にある人たちに対しての優しい眼差しを欠いた共同体はいずれは崩壊する。
人の持つ弱さを否定した社会に明るい未来はない。