希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「働けなくなったら、死ね」という社会はまぎれもなくディストピアであるという件

僕たちは特別な状況に自分が陥らない限り、自分が働けなくなった時のことを想像できない。心身の病気になったり、心身に障害を負ったり、劣悪な労働の条件の会社に勤め続けて消耗して退職を余儀なくされたり、ただ何となく今の仕事が嫌になったりと、これらのことは誰にでも起こりうることである。

 

「働かざる者、食うべからず」という労働至上主義的なイデオロギーが蔓延している社会では、働けなくなることイコール自分の存在価値が毀損されることを意味する。

働けなくなっても尊厳のある生活を保障する、という政策目的を有することが先進国の為政者に課されたのはそう遠い昔のことではない。

働けなくても一定程度の生活を保障されるという社会システムを構築されるということは、この世界が歴史的に進歩したことだといえる。

 

僕の考えすぎ、思い過ごしかもしれないけれども、昨今、「働けない者は存在価値がない」といったイデオロギーが色濃くなってきているような気がして仕方がないのである。

「一億総活躍社会」という空疎なスローガン。老齢年金の支給開始年齢の繰り上げ、定年延長あるいは廃止。僕には死ぬまで働け、と強いられているような気がして仕方がない。働けなくなった者は年金を受給せずにすぐに死ねという隠れたメッセージではないかと疑ってしまうのだ。

穿った見方かもしれないけれども、僕にはこの国のエスタブリッシュメントやそれに連なる者たちが庶民に「働けなくなったら、死ね」との意志を持っているように思える。

経済活動に関われない人たちや経済成長に資することのない人たちは「役立たず」であり存在価値がないとでも言いたげに。

さすがにいくらバカで無能な安倍さんや麻生さんでも、「働けない者は死んでしまえ」とは言わない。しかしながら、両者や閣僚、国会議員が発する言葉・失言からはそういった意図が透けて見える。

 

死ぬまで働きたい、生涯現役でいたい、という声をよく耳にする。そのような人たちはそうすればよい。それはそれで幸せなのかもしれない。

僕は一生を馬車馬のように働き続けるなんてことは御免蒙りたい。

労働は苦役である、との西洋的(キリスト教的)価値観には全面的に同意はできないが、労働は素晴らしいと能天気に考えることはできない。

 

人は働いていても働けなくても、生きていること自体に至高の価値があり、誰もが人としての尊厳が保たれる程度の生活を保障されなければならない。僕はそう信じている。これもイデオロギーの一種かもしれないけれども。

僕はイデオロギーというものに懐疑的であり、それを信じないスタンスではあるが、このイデオロギー的なもの(尊厳ある生活が保障されるべきという)には心を寄せてもいいと思っている。

 

「働けなくなったら、死ね」という価値観に覆われた社会はとてつもなく生きづらいものである。働けないときを過ごした経験がある僕にとっての皮膚感覚である。

この世には少なくない数の働けない人たちが世間を憚りながら存在し、それらの人たちへの冷たい眼差しが、いかにそれらの人たちを切り刻んでいるかを想像しなければならないと、僕は思う。

働いているか、働けないかで人を評価し選別する画一化・均一化された価値基準・度量衡が実はまわりまわってすべての人の存在価値を毀損することになるのである。