希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

社会保障や福祉の意義を考えてみるという件

社会保障制度が現行の社会を成り立たせるのに不可欠なものである、ということは多くの人たちが肯定している(ごく一部のリバタリアン社会保障を否定しているが)。

生活に困窮する人や自立を阻害されている人たちを支援するのは当然の国家の責務である。

 

戦前までのこの国では、生活困窮者に対する施策は国家による恩恵であり施しである、とみなされていた。貧困は自己責任であるが、でもそのまま放置するのは可哀そうだから国家が施してやるという考え方である。そんなメンタリティの救貧対策だと、「劣等処遇」(最底辺の労働者の生活レベル以下の処遇)になり、救貧制度の対象者は厳しく選別される。同時に被保護者はスティグマを刻まれることになる。お上の厄介になり施しを受けている厄介者として白眼視されるのである。このスティグマが現行の生活保護制度の受給者に綿々と受け継がれ、生活保護バッシングが度々巻き起こることになる。

 

社会保障制度や福祉サービスの在り方はそれぞれの国家の歴史や成り立ち方によって異なるものとなる。

所得再分配機能を強化して普遍的なサービスを提供する北欧型。社会保険方式をメインに据えて応能負担を課す欧州大陸型。自己責任・自己決定原則のもと市場に委ねるアメリカ型。どの方式が優れているかは一概には言えない。

先進国であり、民主主義国家を標榜するならば、社会システムの基幹として社会保障制度を埋め込むことがデフォルトとなる。

 

社会保障制度、福祉サービスの意義とはどういったものなのだろうか。

僕の私見を述べてみる。

社会保障・福祉とは人としての尊厳が損なわれている人たち、損なわれかけている人たちに尊厳を取り戻させるきっかけとなる諸施策である。

人に値する生活を保障し、誰もが尊厳を持って生きていくことができるように支援することが社会保障であり福祉サービスである。

 

この国の為政者は社会保障や福祉サービスを「厄介者」ととらえている節がある。

危機的な財政状況であることを奇貨として社会保障費を削減しようとしている。

確かに「ばらまき」的な給付は正さなければならない。高齢者に偏重し現役世代に手薄であること(失業者への給付、住宅政策・教育費等)も問題である。

現行の社会保障制度に問題点があるからといって、社会保障制度そのものを否定してはならない。

 

ありがちな議論として、社会保障制度の拡充は人々を怠惰にさせるというものがある。この手の物言いは人々を「飢餓の恐怖」に陥らせることによって、無理やり働かせることに通ずるものである。

病気や障害、失業等の予期せぬ事態に遭遇しても、セーフティネットが整備されていれば人々は安心して暮らすことができる。

多くの人たちが急き立てられるように働き続けているのは、劣悪な処遇でも我慢しているのは、セーフティネットのあちらこちらに穴が開いているためである。

 

財政上の制約があるにせよ、社会保障制度や福祉サービスをできうる限り充実させれば国家機能の強化にもつながる。同時に国民の利益にもかなう。

社会保障費や福祉サービスの費用は将来に対する「投資」という捉え方をしてもいいはずだ、と僕は思っている。

人に値するような生活を保障できない国、人としての尊厳を軽んじるような国は、もはや国家の体を成さないバラバラの個人が寄り集まった「共同体もどき」に過ぎない。