希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

強い人たちを基にして社会設計をしてはならないという件

僕が若い頃、勤め人をしているときに風邪をひいたり、腹具合が悪いといった理由で仕事を休むと上司に詰られたものである。

「自己管理がなっていない」

「気合が足りない」

といったような言葉を投げかけられた。

ちょっとした体調不良で仕事を休むなんて社会人失格だと何度も言い聞かされた。

 

労働至上主義、勤勉至上主義、精神主義がないまぜになっていたのである。

同僚には、毎日夜遅くまで残業をし、有給休暇をほとんど取得しないような人たちがごろごろいた。

僕は勤め人になってから、体調不良の日々だったので、この「休んだら極悪人」という雰囲気の職場で悪戦苦闘していた。

風邪やインフルエンザに罹患するのは細菌やウイルスによるものであって、気合でどうにかなるものではない。体調不良になるのは職場環境にも原因がある。まあ、僕の場合はいやいや働いていたので、精神衛生上の問題もあった。

 

僕がかつて所属していた職場(市役所に入って2か所目の職場だが)は、「強い人」をベースにしてそういった人たちをモデルケースにしたところだったのだ。

深夜までの残業なんて当たり前、仕事は自分で作るもの、よほどの事情がないと休んではならない、といった掟が存在していたのだ。

 

相対的に「強い人」を基にして設計された社会は、普通の人や相対的に弱い人にとって誠に息苦しくて生きづらいものになる。

もし、働けなくなって収入が絶たれたら、選別主義の厳しい給付基準を潜り抜けて社会保障給付を受けなければならない。また、いつまでも給付を受け続けるわけにはいかない。すぐに「働け」といったプレッシャーをかけられ続ける。働けないと意思表示をすれば、「怠け者」「甘えている」「役立たず」といった罵声を浴び、負のレッテルを貼られることになる。

 

疾病や障害や失業により生活に困窮している弱者を置き去りにするような制度設計をしている共同体はいずれ必ず弱体化し衰亡する。

強者しかまともな社会生活を送ることができないような社会はろくでもないものである。現政権はこのろくでもない社会を作り出そうと躍起になっている。

経済的格差を拡大させて、階級の固定化を図るアナクロニズムな政策を採っている。

 

19世紀の後半から20世紀の前半にかけては、資本主義の矛盾が噴出してきた時代である。その矛盾を乗り越えようとして共産主義ファシズムが生まれてきた。

それらの社会実験が失敗に終わり、今はますます資本主義特に新自由主義・市場至上主義システムが暴走している。富める者はますます肥え太り、貧しい者はますます虐げられる。社会的強者にとってはますます居心地の良い社会になってきている。

さらには権力を握る者と強者は弱者に自己責任を押し付ける。自らは全く責任を担うこともないままに。

 

弱者は自己責任論に踊らされずに、個人で社会の矛盾に立ち向かうのではなく、弱者同士が連帯して立ち向かうしか手立てはない。

権力者は当然にその連帯を阻むために分断統治を試みることになる。さらに資本主義のドグマが人々に内面化されると、個々が共同体から引きはがされバラバラの「個」となる。

弱者による連帯は言うは易しいが実践するには大きな壁が立ちはだかっているのである。

さて、どうしたものか。今の僕には明快な答えを出すだけの力量がない。

でも、何とかしたいという意思は常に持っている。

僕は自分の非力さを思い知らされながらも、もがき続けていく。