希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「やりがいのある仕事」だけを求めるのは単なるエゴイズムであるという件

やりがいのある仕事を求め、そのような仕事に就くことが善というイデオロギーが人口に膾炙して久しい。

僕はやりがいのある仕事なんて幻想に過ぎないと思っている。

しかし、世の趨勢としてそんな言説を吐くような人は「落ちこぼれ」とか「役立たず」のレッテルを貼られてしまう。

 

世の多くの人たち、特に若年層が言うところの「やりがいのある仕事」とはどういうものなのか。

それは、自分が出した成果の果実は他の労働者に分配せずに、成果の果実を独り占めできるような報酬体系の仕事のことを指すといっていい。究極の自己利益の追求である。

異論もあろうが、このことに尽きると思う。

この考え方は新自由主義的価値観、グローバリズムと親和性が高いものである。

本来の労働とは、自己のためだけにするものではない。それではすぐに限界が来る。

他の仲間と協働し、「他の誰かのために」労働をすることによって自分が属する共同体の発展が図れる性質のものである。労働の成果は分かち合うものであって、己の利益のみの追求に終始するものではない。

 

やりがいのある仕事を求めるという行動様式は、自己利益のみを追求するものであって、いわば利己主義の極致である。

資本主義的なイデオロギーを突き詰めると、個々の人たちは共同体から引きはがされてバラバラな「個」の集合体ができあがる。そうなれば、自己利益の追求に終始する行動様式は正しいものとなる。そしてその行動様式はコミュニティの崩壊と表裏一体のものとなる。

 

一見、やりがいのある仕事を求める行為は、自己実現や成長につながるポジティブなものに映る。だが、ここで言う自己実現や成長とは「成熟した市民」や「成熟した大人」になるという営為を指すものではない。いかに効率的にカネ儲けをうまくできるか、というスキルを手にするかという意味しか有しないものである。

 

僕はやりがいのある仕事に就くことを切望すること自体を否定するわけではない。

ビジネスマインドという度量衡が正しいと信じ、それに則った生き方が唯一無二のものだと信じている人たち(今はそれらの人たちが多数派になっているような気がする)はやりがいのある仕事というものをずっと求め続ければいいと思う。

ただ、その価値観の押し付けを僕のようなマイノリティに属する人間に対してしてくれるな、ということである。

僕はやりがいのある仕事になんて興味がない。そんなものに就きたいとは露ほどにも思わない。そんな僕に向かって「意識が低い」とか「向上心がない」とかいう侮蔑の言葉を吐くことは勝手だが(そんなことをされても僕は全く気にならないが)、同じ土俵に上げないで欲しいだけだ。

 

僕の労働観が絶対的に正しいとは思っていない。むしろ、今の世の中では少数派に属するものだと自覚している。

ただ、僕は自己利益のみを追求する行動様式が善とされる風潮に危惧を抱いているだけである。それが社会の衰弱化を招きはしないかと危惧しているだけなのである。

単なる取り越し苦労で終わればいいのだけれども。