希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「消費者マインド」だけに偏っている人が多数派になると社会が歪になるという件

僕たちは大抵は「働く人」という顔と消費者という顔を持って生活をしている。

資本主義システムの下では、特に消費者マインドが肥大する傾向がある。

人の欲望を煽る広告が世にあふれ、経済成長をするためには人はまず「消費者」であれという圧力に常にさらされ続ける。

 

大多数の人たちは物心つく頃から消費者マインドを身に着けている。最小の対価をもって最大の価値をもつ商品やサービスを手にすることが賢明な消費者だとの刷り込みがなされているのである。

このこと自体は別に悪いことではない。

資本主義の世の中を生きていくには必須の心構えであるからだ。

しかしながら、あらゆるものに対して消費者マインドばかりを前面に押し出すと、いささか不都合なことが起こる可能性が生じてくることもある。

 

特に教育については消費者マインドに偏った対応をすると、教育の意義が損なわれる危険性があるように思う。

繰り返しになるが、消費者マインドとは、最小の対価を持って最大限のサービスを受けることが正しい選択となる。あるいは合理的な選択となる。

教育に当てはめると、最低限の学びで、最大の受益(成績の向上や志望校の合格、卒業して学位を受ける等)を得る態度が賢明なものとなる。

確かに受験勉強という限定されたものに関して言えば、当てはまる面もあることにはある。

しかし、「学び」の本義とは自分が何を知らないかを知り、未知のことを学ぶことによって自分がどうなるかも分からないことを知ったうえで、学び続ける、というものである。それは消費者マインドからは随分とかけ離れたものである。

 

言い換えれば、「学び」とは合理性や効率性を無視したもの、「余計なもの」をも包摂して学ぶものである。

仕事に役立つ知識のみを最短距離で合理的に身に着ける営為は一見「学び」であるかのように見えるが、実は似て非なるものである。同様に志望する高校や大学に合格するだけの学力を最低限の勉学で身に着ける営為も「学び」とは似て非なるものである。

「学び」や教育と消費者マインドとは相容れぬものなのである。

 

また、労働環境の劣化も消費者マインドの高揚と相関関係がある。

賢いとされる消費者はできるだけ安くて高品質な商品やサービスを購入するという行為を選択する。供給する側の企業もこの消費者マインドに則った行動を採ることになる。

コストを下げる圧力が常に企業にはかかることになる。そのための手っ取り早い方法が人件費の圧縮である。

消費者マインドに寄り添った行動を企業側が採れば採るほど、働く人たちの処遇は劣化の一途を辿ることになる。結果、消費者としては暮らしやすいが、労働者としては生きづらい社会となるのである。

 

消費者マインドのみに偏ると、そのしわ寄せが自分に襲い掛かることになる。

だからといって、現行の資本主義体制に適合した消費者マインドを捨て去ることはできない。

消費者マインドに偏った弊害をどうすれば正すことができるのか、僕にはその処方箋が分からない。

ただ、言えることは僕たちは消費者の顔だけを持っているのではない、という自覚を持つことも時には必要だということだ。

合理的で賢明だと一見思える消費者マインドも、絶対的に正しい行動様式だとは言い切れないと、時には内省することでそれのブレーキをかけること。

それだけでもちょっとだけだけれども、何かが変わるかもしれない。