希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「苦労の押し付け」をする輩はみな老害であるという件

この社会では未だに根性主義や精神主義が蔓延している。

「やる気を出せ、やる気を見せろ」とか「やる気があれば何とかなる」といった類の言葉を浴びせられた人は多いと思う。

 

度が過ぎた精神主義は思考停止の状況に陥ってしまう。また、実証性や客観性を軽視する反知性主義へと至ることにもつながる。

 

僕が若い頃、先輩や上司といった年長者からたびたび「苦労すること」を押し付けられた。意味のない長時間の残業や理不尽なクレーム対応など、それらが意味のあることでそれらをこなしてこそ成長するんだと教え込まれた。また、一見つまらなさそうに見える仕事にも意味があって、疑いを持ってはいけないとも言われた。

今となっては長時間の残業なんて単なる時間の浪費だし、つまらない仕事は無意味だったと断言できる。

 

なぜ、多くの年長者は若年者に苦労を押し付けたがるのか、僕には理解できない。

僕ならば、年長者の智慧を活かし、いかに効率よく無駄な回り道をしないで成果を出すかを若い人たちに伝えようとするだろう。苦労が成長につながるなんて根拠のない戯言である。

 

昨今のスポーツの領域において、結果を出しているチーム(駅伝の青山学院やラグビー帝京大学等)は従来の体育会的な指導法から脱し、またきつい上下関係を廃しているという。科学的なトレーニングを重視し、しごきや長時間に及ぶ練習をやめて、それによって良い結果が出ている。

スポーツの世界では長い間精神主義が蔓延していた(今も残っている)。

しかし、一部でそれらを変えて、楽しみながらスキルを上げようとする流れが出てきている。これは良い傾向であると思う。

スポーツ以外の他の領域でも、この流れが加速すればよい結果が出ると思う。

 

「苦労は買ってでもしろ」という言葉はもう死語にしてもいい。

そもそも、ある目標に達するまでのプロセスを納得してしていれば、苦労だなんて感じることはない。それを苦労していると感じているということは、どこかに無理があるということである。

 

苦労の押し付けをしたがるオッサン連中が絶滅種になれば、この社会の未来は明るいものとなるはずである。

まだまだこの手の連中は数多くあちらこちらに棲息している。現在の閉塞感をもたらしているひとつの要因はこの手のオッサンが社会のあちらこちらに居座っているからである。苦労の押し付けが好きなオッサン連中を一気に排除するのは可哀そうなので(彼らはは居座ろうと強く抵抗するはずである)、旧来の価値観を変えるような流れを地道に作り上げるような営為を続けるよりほかに手立てはない。

 

僕は苦労の押し付けをするようなオッサンにならないように心しておかなければならないと強く思っている。

別に若者に迎合するわけではない。

自分がされて嫌なことはしない、ただそれだけのことである。

老害にだけはなりたくない、ただそれだけのことである。