希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

この国には本当のエリートはいないという件

「エリート」と聞いて多くの人たちはどのようなイメージを抱いてるか。

おそらく、自分の学歴をはじめとする経歴を鼻にかけた鼻持ちならない奴といったネガティブな印象を抱いているのではないだろうか。

では、この社会にエリートは不要かと言えば、僕はそうではないと思っている。

 

共同体の維持・発展のためにはその共同体の成員の中で指導的役割を果たす人たちがどうしても必要となってくる。その指導的役割を果たすべき人物をどのようにして選び出すかは時代背景や社会状況によって異なってくる。

共同体の中で能力を発揮して次第に頭角を表す人を見出して指導者層に据えるという自然発生的なものか、エリート教育を施された人たちの中から抜擢するという人為的なものかのいずれかの方法による。

 

大衆社会となり、平等志向が行き渡るとエリートの存在価値が低くなり、またエリート層に属する人たちの資質が劣化する、と僕は感じている。と、同時にエリートのインフレ化が起こることになる。「選良」という言葉が死語になる。

 

世間では有名大学を出て一流とされる会社で勤めていたり、中央官庁に上級職採用された人たちをエリート視している。それらの人たちは確かに少数の「選ばれた人たち」には違いないが、真のエリートではない。インフレ化したまがい物のエリートと言える。

エリートとは自己利益の追求に血眼になっている人のことではない。

エリートとは、自分の恵まれた資質や恵まれた境遇を意識し、その能力を社会に還元することを使命だと意識し、自己利益ではなく公共の利益のために働く人たちのことである、と僕は思っている。

そのように規定すると、この国にはエリートと呼べる人たちは存在しないことになる。

権力者層に属する人たち、官僚や大企業の経営者や政治家たちは皆が皆自己利益の追求のみに血道をあげている。利権を貪り、縁故主義が蔓延し、公共心の欠片もないような輩が我が世の春を謳歌している。

 

この国の現状として、真にエリートと呼べる人たちが存在しないということもってエリートなんて不要だ、と僕は思わない。

民主政の負の側面として、大衆迎合的になったり、行き過ぎた平等主義が蔓延したりする。あるいは現政権のように、愚か極まりない者がトップに居座ることにもなる。

これらの弊害は真のエリートがいないことによって引き起こされた帰結かもしれない。

 

かと言って、真のエリートが存在しているとしても、それらの少数のエリートによる全面的な支配体制も受け入れがたい。

一般大衆の意を汲んだ者と超然としたエリートが混然一体となって共同体を導くというシステムであれば、それが民主政の理想形である。要はバランスが大事なのである。

 

僕の勝手な思い込みなのだけれども、もはや既存の教育制度からは真のエリート的な人物は現れないような気がする。

そして僕の希望的観測なのだけれども、真のエリート的な人物はローカルな地域から、あるいは既存の教育制度から逸脱したところから出てくるのではないかと思っている。

綻びがあちこちにあり疲弊しかけた社会システムの中でそれを繕い再構築できるのは規格化された人ではダメなのである。