新しいビジネスとしてAIによって人間の信用度を測り、そのデータを企業に売るというものがあるらしい。この話を聞いて僕は暗澹たる気持ちとなった。
そんなに人間を格付けしたいのか、選別したいのかと。
クレジットカードや消費者金融の会社が対象者の信用度を調査するのは理解できる。
貸し倒れのリスクを軽減せるためには当然のことである。ローンを扱う会社が債権回収のための便宜のために信用調査するのは、ビジネス目的だけである。
しかしながら、AIによる人に対する格付けはビジネス目的以外に拡張適用する余地がある。たかだか勤務先や年収や学歴や持ち家か否か等の指標によって、人の価値を決めるなんてことに僕は同意できない。
僕の考えすぎなのかもしれないけれども、人を選別し格付けしようとする圧力がこの社会に蔓延しているような気がする。
人それぞれの「生きざま」はデジタルのデータだけでは判断できない。
良い大学を出て一流と呼ばれている会社や官公庁に勤めているとか、起業に成功して高い年収を得て莫大な資産を保有しているとかいった事実だけで、その人が人として優れているわけではない。このことは多くの人たちが了解しているはずだ。
なのに世間では主に経済的指標をもって人の価値を決めつけている。資本主義のドグマに骨の髄まで侵されているのである。
僕たちはついつい見せかけの判断基準で相手を判断してしまう。相手が無職だったりフリーターだったりニートだったりするとその相手の価値を低く見積もり大したことのない奴だと判断しがちである。逆に相手が有名企業に勤めていたり、金持ちだったりすると過大に評価しがちとなる。
そもそもが人を格付けして選別すること自体が不毛なことなのだ。
人について回る属性なんてその時々でコロコロ変わる不安定な代物だ。
たとえ一流と呼ばれる会社に勤めていても、リストラされたりあるいは辞めたりすれば一気に無職のプータローに変容する。金持ちの社長がビジネスに失敗しても同様である。うまくいっているときは立派な人で、一度失敗すれば取るに足らない奴だとなってしまう。人に対する格付けや信用なんて仮初のものに過ぎないのだ。
格付けや信用に限らず、人を「選別」するという営為自体がその先に恐ろしいものが待っている。
ナチスはユダヤ人を劣等人種として選別し、また障がい者を役に立たない者として選別し、収容所に送り込み大量殺戮という蛮行を犯した。
ナチスの犯した蛮行を、特殊な狂気じみた例外事項としてとらえるのは間違いである。いつでもどこでも起こりうることなのである。
時の権力者は例外なく、民衆の自由をコントロールしそれを奪い統制することに快楽を覚えるものである。人に対する「選別」もその権力の行使のひとつである。
僕たちはこのことを心しておく必要がある。
人を経済的指標のみで判断したり、「役に立つ」か否かで判断することはその権力行使に加担する行為である。
安易に人を格付けしたり、盲目的に信用度の評価を信じるということを続けていると人の「選別」という恐ろしい行為に加担することになる。
僕たちはこのことも心しておく必要がある。