成長や自己実現という言葉に踊らされ、背伸びすることを強いられる社会は窮屈だと感じる。それらは経済成長に資する生き方をせよ、と急き立てられているような感じもする。身の丈に合った生き方を志向することは間違ってはいない。
初出 2018/6/14
成長や自己実現や努力を至上のものとするイデオロギーに毒された社会では「身の丈に合った」生き方を志向しづらいものがある。
自分の「居心地の良さ」が第一だと僕は思うけれども、世間様はなかなか許してくれない。
僕は若いころ目に見えない何かに急き立てられていた。
それは自己実現とか仕事のやりがいとか成長し続けることと言った類のものである。
今いるその場に留まっていてはいけない、もっと高いところへといかなければならない、という強迫観念に似た何かに常に追い立てられていたのだ。
成長神話といった実体のないものに僕は囚われていたのである。
僕は40歳を過ぎたころから、今まで囚われていた上記のようなイデオロギーを信じることをやめて、「ほどほどに」生きることにシフトチェンジをした。
半ば諦めの境地に達したのである。そして、経済成長に資するための成長というものに対してバカバカしく感じるようになったためである。
「ほどほどに」生きるということを公言したら、現状維持に甘んじているだとか成長がなくなるだとかの苦言をいただくことになる。
現状維持のどこが悪いのか。
「ほどほどに」生きることのどこが退嬰的なのか。
ありもしない幻想に踊らされて、一生を馬車馬のように働き続けることがそんなに尊いことなのか、と問いたくなる。この問いに明確に答えられる人はほぼいないだろうと断言できる。
「ほどほどに」生きることは、自分の「分」を弁えることである。
分を弁えるといっても、僕は身分制社会を肯定するわけではなく、メリトクラシーを否定するわけでもない。
働き続けることが成長につながると信じている人たちは、そのイデオロギーに則って生きていけばいい。ただ、僕とは寄って立つ価値観の相違があるだけの話である。
僕は僕の価値観が正しいとは思ってはいない。一方で、勤勉至上主義的なあるいは労働至上主義的なイデオロギーが正しいと思っているわけでもない。
人は自分を取り巻く環境やそれまで生きてきた道程がそれぞれ異なっていて、人それぞれに自分なりの価値観を形作る、それだけの話である。
僕は「ほどほどに」生きるようになってから、それまでよりは随分と生きやすくなった。確かに経済的に豊かになることや高い社会的地位を得ることはできなくなったが、一日一日を楽しく面白く過ごせるようになった。
肩書やカネに汲々とする生き方から数歩隔ててみて、別の面白さを見出すことができるようになったのである。同時に「男なら〇〇であるべきだ」という世間からの同調圧力からも少しだけ離れることができたのは大きい。
僕は僕が実践している「ほどほどに」生きることを押し付ける気はさらさらない。
ただ、競争に疲れた人がいたならば、こちらの世界も結構楽しくてワクワクするよ、とそれらの人たちに悪魔の囁きをしてみたいだけなのだ。競争することだけが人生ではない、とオルタナティブを目の前に見せたいだけなのだ。
「ほどほどに」生き続けていって、良きところでほどほどの人生だったなぁと振り返りつつ自分の人生を終えたい。そうなれば万々歳である。