一般論として、この国の人たちは親切である。外国人旅行者もそう感じているという。
僕の肌感覚としては、「内輪の人たち」には確かに親切に振舞うと思う。
僕たちはこの社会は優しさに満ちたものだと思っている節がある。
電車に乗ったときのアナウンス、それぞれのショップでの店員の接客等々確かに一見優しさに満ち、親切心に満ち溢れている。
しかし、僕はこの社会は他者に対して冷酷な社会だと思っている。
共同体の掟に「まつろわぬ」人たちに対してはものすごく冷酷になり、時として排除する。
新卒一括採用は、新卒で働こうとしている人たちにとっては優しい制度である。
なぜなら、職歴もまったくない学生に対してその潜在能力に期待をかけ、そこそこの処遇で雇おうというのだから。全く右も左も分からない新米を会社の正式なスタッフとして向かい入れるのだから(批判はあるとはいえ)優しい制度である。
しかし、この新卒カードを使わなかったり、使いそこなった人たちに対しては一転して無慈悲になる。職歴にブランクがあるというだけで、職に就く機会が損なわれる。
事情があって非正規雇用の職に就きあるいはフリーランスの形で仕事をしたりして、一定期間それが続くと途端に正規社員の道が閉ざされる。
学校教育、特に義務教育期間は生徒がまともに通学している限り、至れり尽くせりの「やさしさ」をもって生徒に相対する。ただし、これは生徒を現体制に従順に従わせるため均質化し馴致するものであることを忘れてはならない。
ある生徒が学校というシステムに少しでも異議申し立てをしようものなら、冷酷に切り捨てることになる。
学校教育というシステムから逸脱した人たちに対する、世間の冷酷さは例を挙げればキリがない。
生活に困窮した人たちに対しての対応をみても、やさしさと冷酷さが混在している。
生活に困窮した理由が真っ当なものだと判断され(失業や病気等)、本人が血の滲むほどの努力をしてもなお事態が好転しないという瀬戸際になって、本人が首を垂れて助けてほしいと意思表示してはじめてわずかばかりのやさしさが向けられる。
生存権を主張したり、支援を受けるのが当然というそぶりをみせたりすると途端に周囲は冷酷になる。自己責任論の大合唱が起きるのだ。
以上にあげたケースばかりでなく、この社会は一見やさしさに満ちていて、実は冷酷である。
現行の体制に従順であって、共同体の枠内でいるうちはわずかばかりのやさしさが向けられることがある。多くの人たちはこのやさしさを言挙げして、この社会は親切心にあふれた良い社会だとの幻想を抱いている。
体制にまつろわぬ人たち、共同体から逸脱した人たち、様々なマイノリティの人たちに対しての世間の冷たい眼差し。
均質化圧力に抗う人たちに対する同調圧力。
繰り返し巻き起こる自己責任論の大合唱。
僕のような少数派、異端者は、この冷酷な社会の中でその冷酷さを熟知しながら、自力でやさしさを見出してそれを享受できるような気構えを有していなければならない。
なかなかに骨の折れることである。
絶望の中に希望の種がある、と信じていくしか手立てはない。