僕が敷かれたレールから外れた生き方をするようになって結構な月日が経ってしまった。僕としてはお気楽に楽しく過ごしているが、世間から見ればもう「終わった人間」となるだろう。
僕たちは幼いころからこの社会にうまく適応できるように教育される。協調性を持てとか、人に迷惑をかけるなとか、自分勝手なふるまいは慎めとか、権利ばかりを主張するな義務を果たせとか様々なプレッシャーをかけられ続ける。それらの試練をようやく潜り抜けて、良き社会人となれるのだと思い込まされている。
この社会は色々と歪や矛盾や悪いところもあるが、基本的には既存の秩序を守るべきであり、それに順応して生きていくべきだとの了解がある。
僕は若い頃は社会不適合者だけにはなりたくないと思い、色々と無理を重ねてきた。
人からは「仕事ができる奴」と見られたい、「向上心がある奴」だと思われたい、といったようなプレッシャーを自分にかけ続けていたのだ。それらは僕の元々の気質とは相容れないものだった。このことに気付いた時には、僕はうつに罹患し、一切のそれまでのちっぽけな実績を手放さなければならない状況に陥っていた。
僕は今、かつてあれほど忌み嫌っていた「社会不適合者」になりつつある。
真っ当な勤め人(正社員として働く)にはもう戻れない。積極的に人付き合いをすることには気後れする。少数の気心の知れた友人との付き合いで満足している。結婚をして子をもつことは諦めている。老後のことなんて考えてはおらず、なるようにしかならないとの構えでいる。経済成長に資することなく、陋巷でひっそりと生き死んでいくことを受け入れている。永井荷風の生きざまをモデルケースにできたらと密かに思っている(あんなに資産はないけれども)。
こんなクソみたいな世の中に無理に順応しなくてもいいのではないかという思いが半分あり、かと言って共同体の成員としての自分なりの役割を果たさなければという思いが半分あり、その両者のせめぎあいの中でもがいている。後者の思いが残っている限り、完全なる社会不適合者にはならない、と自分を慰めている。
どうやら僕は共同体においての自分の役割を完全には放棄せずに、表面上は社会に順応できていないといった感じで生きていくのが、僕なりの生存戦略になりそうだ。
首の皮一枚でつながっている感じの、綱渡り的な生き方である。
社会不適合者として生きていくのは、辛さもあり気楽さもありと言った感じで不安定な心持ちを抱きつつのものとなる。
これはこれで仕方がない。
「無理をしない」「頑張りすぎない」ということが、ようやく僕のたどり着いた心境なのだから。