僕はずっとある時期まで怠惰は悪だと思っていた。
今やるべきことをやらない人は何をやっても駄目だと思い込んでいた。勤勉は美徳とまでは考えていなかったけれども、努力を放棄した奴は役立たずと思っていた。
ある時期を境に僕の価値観はコペルニクス的に転換し、今は怠惰は美徳とさえ思えるようになっている。ただ世間を憚って、声を大にして主張はできない。
怠けることは良いことだと公言すると、今の社会システムの中では浮き上がってしまい、時として排除されることになる。
でも、僕は声を潜めて(心の中では声を大にして)言いたい。
「怠けることのどこが悪いのか」と。
僕たちは学校に通っている間も働きだしてからもずっと「勤勉」であることを強いられる。
宿題をきちっとすること、行事に積極的に参加すること、休まないこと、サボらないこと、残業を厭わないこと、等々。
怠けるような気配でも出せば、教師や上司から叱咤される。
そして悪魔の言葉を吐かれる。「怠けるような奴はロクな人間にはならない」。
この呪詛をかけられて、僕たちは怠惰は悪だとの刷り込みがなされ続けるのである。
勤勉が美徳とされだしたのは、資本主義システムが勃興してからのことである。
資本主義体制を維持発展させるためのエートスに過ぎないものである。
人々の際限のない欲望を充足させるためには常に拡大再生産を続けなければならない。常に目一杯働き続けなければならない。怠けている暇などない。
一旦止まったら、現行の資本主義システムは瓦解するとの強迫観念に支配されているかのように。
怠けることを悪いとは思わないマイノリティはあたかも中世の魔女のごとく排斥されてしまうのだ。
右肩上がりの経済成長が続いていた社会では、勤勉は美徳というエートスは有効な生存戦略でありえた。
一方で今の右肩下がりで下り坂を下りていく今の社会では既存の価値観が有効であるのかは疑問である。かつての経済成長を夢見て、ゴリゴリに働き続けることを良しとする考え方自体が時代遅れの遺物なのではないか。
目標を定めて、それに向かってまっしぐらに突き進むという行動様式が無効化されているような気がして仕方がないのである。
もはや経済成長は見込めない社会においては、それに適応する生存戦略が存在すると考えた方がよい。
そのひとつが「怠惰は美徳」かもしれないということだ。
何も僕は来る日も来る日も、日がな一日何もせずに惰眠を貪れと言いたいわけではない。
時には立ち止まって、一休みして、怠けることを楽しむゆるさが余裕があってもいいのではないか、と言いたいだけなのだ。
たまに仕事をサボるのもよし、仕事を辞めて、無職の時を過ごしながら内省的にすごすのもよし、といったように走り続けることを一旦停止して、道草を食ってみてもいいのではないかなぁと思う。そのためには無論、道草を食っても、また元の道に戻りやすいような社会システムが構築される必要がある。
「たまには怠けてもいい」「ほどほどに、ぼちぼちと」といった言葉が行き交うようなゆるい社会であれば、多くの人たちの生きづらさが軽減される。