僕はもう人生の折り返し点を過ぎたと自覚している。
人生の後半部分を生きているのだ。
体のあちらこちらにガタがきている。
後はもう、下り坂をそろそろと下りるようにして生きていくものだとの諦念がある。
しかし、僕はこのことを悲観していない。
何度もこのブログで言っているように、僕はダメ人間である。
がむしゃらに働くことはもうできない。成長や自己実現なんてさらさら考えていない。
ダメ人間を極めようと思っている。「極める」といってもぎちぎちに頑張るわけではない。あるがままの自分を受け入れて、飄々とした態度でいきたい。
僕にははっきりとした目標設定はない。
あえて言えば、毎日を面白楽しく過ごすということだけだ。
そのためには何事も「ほどほどに」ということと、「頑張りすぎない」という生活態度を崩さないようにする。
今の僕にとって、これらの生活態度が有効な生存戦略であるとの確信がある。
人との競争に打ち勝って経済的豊かさを得たり、社会的地位を獲得しようなんて野望は微塵もない。
安心感が得られる居場所を確保し、友人知人と共生しながら、ゆるゆると生きていきたい。
こんなことを公言すると、おそらく僕は「もう終わった人間」だと言われるだろう。
僕はそれでも全然構わない。
世間で真っ当とされている人たちの度量衡からすれば、僕は終わった人間である。しかしながら、全く終わったわけではない。経済成長至上主義や労働至上主義的な価値観からちょっとだけ外れた生き方をしているだけなのである。
多数派の価値観が唯一絶対なものというわけではない。
「みんな」がしていることが必ずしも正しいわけではない。
多数派を形成している人たちからの「ズレ」が一面の真理を表象することだってある。
今の世の中で「ほどほどに」とか「頑張りすぎない」で生きるには様々な障壁があることは確かである。
同調圧力という厄介なものがある。
均質化圧力という厄介なものもある。
ここで肩肘張ってしまえば、意味がなくなる。
他者からのあるいは世間からのプレッシャーを軽く受け流して、涼しい顔をしてやり過ごすに限る。
同調圧力や均質化圧力から逃れ、それらに抗う営為が僕にとっての自由である。
「ほどほどに」と「頑張りすぎない」という生き方を僕はもう捨て去ることができない。
この歳まで生きてきて、ようやくたどり着いた境地である。
この僕が抱いている価値観が正しいものなのかどうかは僕には分からないけれども、不快さを感じていないから、僕には合ったものだと思っている。
僕が志向する生き方は、とても贅沢なものなのかもしれない。
僕はこの贅沢を味わい尽くしたいという野望がある。