希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

大学は「サラリーマン養成所」なのか、という件

大学は高等教育機関である。

しかし、高度経済成長期には大衆教育社会となり大学生はエリートではなくなった。数年前からは「大学全入時代」となり、大学の存在価値の低下が甚だしい。

 

大衆教育社会となり、大学全入時代に突入したことから大学はサラリーマン養成所と化した、と僕は思っていた。

ところが、戦前にも大学生が会社への就職にあくせくしそれにしか興味を持たない学生が増えていることに警鐘を鳴らす言説が流布していたらしい。

戦前の大学生は同一年齢の中で1%程度しか進学できないまさにエリート(学士様と呼ばれていた)だったのである。進学率が50%を超える現在とは全く様相が異なる。

そんな希少価値のある戦前の大学生でさえ大きな関心事は就職だったということは考察に値する事実である。

 

僕が大学生の頃は、会社は大学で何を学んだか、どの程度の成績だったかは不問だった。逆に会社は変に大学で知識を得て「学があること」を忌避する傾向にあった。

極端に言えば、体育会の学生やサークル活動やアルバイトに明け暮れた学生を会社は好んで採用していた。大学で得た専門知識なんか会社での業務には役立たないと会社はみなしていたのである。

ところが昨今は財界は大学に「即戦力」を養成しろとプレッシャーをかけている。グローバル人材なるものを養成せよと言い続けている。このことは僕の学生の頃に大学に求めたものとは180度変わったように一見思われる。実は違う。表現を変えて同じことを求めていて根っこの部分は同じなのである。

財界が大学に求めるのは会社で役に立つ実学(利益を即生み出せる実効性のある知識や技能)のみである。人文科学・社会科学・自然科学のうちの実効性や即効性がない教養的なものは不要であると言っているのだ。

大学がサラリーマン養成所と化している要因は、教養的なものの軽視にあるのではないだろうか。

 

近年、「大学改革」の名のもと教養学部やそれに類する学問領域を解体してきた。高等教育のキモはリベラル・アーツにあるはずなのに、それを不要のものとして排除してきた。さらには国立大学で人文科学系の学部を廃止・縮小すべきとの議論まで出てきている。この傾向が続けばますます大学は単なるサラリーマン養成所となるだろう。

僕は実学も大切だと思っている。しかしながら、高等教育が実学偏重となると、結局は経済が停滞し果ては国力の減退につながると思っている。カネ儲けに直接つながらない基礎研究等を軽視すると、イノベーションが起きなくなるし、科学力や技術力が低下することになる。人文科学を軽視すると「考える力」が減退し想像力が衰える。批判精神が育たなくなり、政府権力の暴走をコントロールできなくなる。

 

現在の社会では雇われて働く人たちが圧倒的多数を占めている。大学がサラリーマンの養成所になるのも致し方ない面もあると思う。

しかしながら、すべての大学がサラリーマン養成所となり、「教養」が跡形もなく消え去った社会はディストピアとなる、と僕は思っている。