資本主義社会ではカネをより多く稼ぎ、また多くの資産を持っている者が力を持つことになる。消費をより多くする者が資本主義社会の適応者でもある。
ビンボーであるとこの社会ではみそっかす扱いされる。しかしながら、ビンボー即不幸だと断定することはできない。
初出 2018/4/26
何度もこのブログで書いているように僕はビンボー人である。
物欲が殆どないので不便はない。
しかしながら、まとまったカネを急に要する事態となった場合に難儀する。パソコンが急に壊れたり、エアコンが急に壊れたりしたら本当に困ってしまう。
でもまあ、そんなことをあれこれ考えても仕方がない。無収入ではないので何とかなるだろう、と鷹揚に構えている。
僕はビンボーである上にヒマ人である。スケジュールがカスカスであることに快感を覚えている。僕がお気楽なビンボー生活を送ることができている所以はヒマ人であるところにある。
もし、みっちり働いてビンボーだったら目も当てられない。社労士事務所を自営している末期の頃は「貧乏暇なし」状態だったが、もうあの頃のような生活には戻りたくない。精神をやられてしまう。
以前のこのブログで何度も言及しているようにビンボーと貧困は全く質が異なるものである。僕はビンボー生活歴が長いが、幸運なことに貧困状態に陥ったことは一度もない。根拠があるわけではないけれども、ビンボーではあってもちょっとだけ未来に光があると信じている。別にカネが有り余るようになると思っているわけではない。今よりもほんの少しだけカネが手元に回ってきて、ほんの少しだけ余裕のある生活ができるだろう、と将来に期待をかけているのだ。
ビンボー生活がこの先もずっと続くとなると、やはりちょっとだけきついものがある。未来に光があると信じることができれば、ビンボー生活もそんなに苦にならない。
ビンボー生活を長く続けていると良いところもある。
一時的な所得があると(額がそんなに大きくなくても)嬉しいし、ちょっとだけ高額なモノを買うことができるとこれまた嬉しくなる。小さな幸福感を抱くことができるハードルが低いので、人から見れば取るに足らないことでも幸福感を持つことができるのである。僕はこの感覚を失いたくない。
僕がかつて正社員として勤め人をしている頃は、幸福感を得るためのハードルが高く、常に不平不満を抱いていた。そこそこ余裕のある生活を営むことができるだけのカネは持っていたが、決して自分が幸福だとの思いを抱くことができなかった。
その淋しさを埋め合わせるためにカネを使い、消費欲を満たしていた。ただ、いくら消費欲を満たしても、決してそれが幸福感につながることはなかった。
カネはあるに越したことはないが、そこそこ使えるだけのカネはあっても満ち足りることはないというジレンマに陥っていたのである。
僕はこのままビンボー生活を続ける可能性が高い。そのことは分かっている。
でも、未来を信じている限り何となくやり過ごせそうだ。
いや、明るい未来なんてなくてもいいのかもしれない。人は必ず死ぬ。人は致死率100%なのである。だから限りある命の中で「その日暮らし」で毎日を面白く楽しく過ごせれば、それだけでいい。
ビンボー生活でも面白く楽しく過ごせるための創意工夫を欠かさないつもりだ。
ビンボーは決して不幸ではないとこの身をもって示すことができれば、と思っている。
僕のささやかな「野望」である。