希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「社会人」とはカネを稼げる人だけのことをいうのではないという件

時々無造作に使用してしまうが、僕は「社会人」という言い方が好きではない。

そこには正社員として会社に勤めていて、給料をもらって生活を自分の力で成り立たせていて「自立」しているというニュアンスが込められているからである。

国家やあるいは世間が推奨するようなライフコースを辿っている人たちが「まともな社会人」であって、そうではない人たちは社会に属する一員として認められないという狭量さを嗅ぎ取ってしまうからである。

 

よくよく考えてみると殊更に「社会人」という枠組みを設定することはナンセンスである。どんな境遇にあったとしても、この社会に生きている人たちは等しく社会人であるはずである。社会人という枠組みを設定する行為は、例えば一等市民と二等市民といったように人々を選別し格付けする愚行につながる危険性を孕んでいる。

 

「社会人」や「一人前」といった観念を狭く限定的にしたものにすれば、そこから零れ落ちる人たちも生まれてきて、それらの人たちの立つ瀬がなくなってしまう。

僕たちは人生の中で様々なことに遭遇する。一握りの幸運な人たちを除けば、病気になったり、失業したりといったように自分の意に反した困難に出遭うことになる。

そうしたときに、自力で稼げなくなり誰かに頼ったりすることもあるだろう。他人に迷惑をかけたりすることもあるだろう。

それらの人たちを「社会人失格」というレッテルを貼り、排除することは容易い。自己責任論を盾にして、手助けを放棄することも容易い。

しかし、本当にそのような態度を採ることが人としてあるべき姿なのだろうか。

 

人はひとりきりでは生きていけない弱い存在である。

同様に社会人も自分が属する社会の中で助け、助けられしながら、どうにかやっていける程度の弱い存在である。この事実を忘れている人たちがあまりにも多い。

たかだか一流と呼ばれている会社に雇われ、人より多く給料をもらっているというだけで、弱い立場にある人たちを見下し、そうすることによって留飲を下げているような自分の愚かさを自覚している人たちがどれほどいるのだろうか。

 

僕の全くの個人的な考えなのだけれども、社会人とは他者との共生ができる人たちのことだと思っている。年齢も職業も関係ない。健常者だろうが障害を持っている人だろうが関係ない。

共生とはそんなに難しいことではない。

自分の弱さと相手の弱さを認めて、互いに補完しあう営為のことである。

互いに異なる価値観を有していることを認め合い、自分の考えのみを押し付けない営為のことである。

古来から人々は(どのような民族、どのような共同体であれ)いかにして共生するかを試行錯誤してきた。

 

殊更に「社会人」という言葉を濫用しないこと。

「社会人」の枠組みを意図的に設定しないこと。

たったこれらのことだけを意識するだけでも、多くの人たちの生きづらさは軽減されるはずである。