希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

所有権という概念が人々を苦しめているのかもしれないという件

僕は物欲がほとんどない。いや、この歳になって失くなってきたという方が正しい。

若いころは消費を煽るメディアに踊らされて、あれが欲しいこれが欲しいと欲望まみれになり、その欲望を満たすために無理やり働いていた感がある。

この人が持つ所有欲は先天的なものなのか後天的なものなのか僕には分からない。いずれにせよ、資本主義システムの中で生きていれば、「所有欲」は常に湧き出でてくるものとなる。

 

僕たちはあるモノ(土地等の不動産もあれば動産もある)をカネを出して手に入れたり、誰かからもらったりすれば、そのモノに対して所有権を有することになる。この所有権とは排他性のある「強い」権利である。

例えば土地を手に入れたならば、その所有者はその土地をどのように使っても公共の福祉に反しない限り自由である。そのまま遊ばせておいても良いし、建物を建てても良いし、人に貸して借地権料を取っても良い。

私的所有権は資本主義体制あるいは自由主義体制の基になる制度である。私的所有権を否定するイデオロギー共産主義となる。それゆえに戦前は共産主義が弾圧されたのである。

 

僕たちは生まれた時から私的所有権は自明のものとしている。

自分の欲しいものを手に入れようと思えばカネが必要だと、物心ついた時から知っている。そのカネを手に入れるために、大人になったら働かなければならないと、これまた幼少の頃から刷り込まれる。労働と私的所有権は不可分の関係だと思い込むようになるのである。

 

こんなに現代社会は先行きが見えないものだと喧伝されているのに、持ち家を長期ローンで買う人たちが後を絶たないことに僕はいつも首を傾げてしまう。

自分の住む家は「自分が排他的権利を持つ所有権によるものでなければならない」という常識のようなものが世間に流布している。庶民が持ち家を持つようになったのはつい最近のことである。それまでは庶民は長屋だとか貸家とかに住むのが常態であったのだ。

戦後の(特に高度経済成長期以後の)政府の持ち家政策によって、庶民は自分の持ち家を持たなければならないという強迫観念的なものを植え付けられたのである。

住宅政策は社会保障の根幹をなすものであるが、この国の歴代政権はそのなすべき住宅政策を放棄し、民間の特定の業界に丸投げしたのである。

持ち家を所有しなければならないという強迫観念によって、僕からすれば考えられないような超長期ローンという名の多額な借金を背負い、多くの人たちがにっちもさっちもいかなくなっているのである。

 

近年、若者を中心として「シェア」や「レンタル」をメインにしたライフスタイルが浸透してきている。シェアハウスやルームシェア、カーシェア、レンタルサイクルなどなど枚挙にいとまがない。

高齢者や中高年齢者よりも社会の流れに敏感な若者たちが、これまで自明とされてきた所有して当然という風潮に抗っているのは興味深い。僕の個人的な考えではあるけれども、この流れは良いものだと思う。

私的所有権にこだわると、自分の人生の選択肢が狭まる一面があることは否定できない。なるべくモノを所有しないというライフスタイル、必要なものはシェアしたり借りたりするというライフスタイルは有効な生存戦略である。身軽になり、生活コストの固定費を減らすことができる。そうなれば、不測の事態に見舞われたときには、とっさに適切な対応を採ることができる。生き延びるための選択肢を多くすることができる。また、生活コストの固定費が下がれば、無理に嫌な仕事を続けなくてもよくなる。

 

私的所有権を廃止したり制限したりすることは無理な話である。現体制を転覆し、全く新たな社会体制になることを僕は望んでいない(殆どの人たちもそうであると思う)。

しかし、自分のできる範囲で「私的所有権が絶対的なものである」というイデオロギーを突き崩すことはできるように思う。

面白楽しく、生き辛さのないライフスタイルを築き上げるために、所有権にこだわらないという生き方を僕はこれからも模索し続けていきたい。