希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「一度生活レベルを上げると、下げられない」という話はウソであるという件

よく巷で言われる話に、「一旦生活レベルをあげてしまうと、もう生活レベルをさげることができない」という類のものがある。

何らかの理由で収入が減っても、支出額はなかなか減らすことができないという話だ。そのために生活レベルを維持するために消費者金融やクレジット会社から借金をしてしまうというオチになる。

果たしてこの手の話は本当のことなのだろうか。

 

僕の個人的な体験や、周囲の友人知人たちのケースからみると、どうもこの手の話は眉唾なものではないかとの感が拭えない。

減った収入額に応じて支出を削るという作業はさほど難しいものではない。必要不可欠な固定費的なもの以外の流動費的な支出を選別して削ればいいだけの話である。

よくよく支出の内容を吟味してみれば、無駄なものが結構あることに気付く。付き合いで入っている生命保険だとか、新聞の定期購読費だとか、地上波以外の有料テレビとか、行かなくても差し支えのない外食費等々。最大のものは住居費である。必要以上に贅沢なところに住んでいないか、家賃を抑えることができないかと図れば意外と抑えることができたりする。

 

「一度上げた生活レベルはもう下げられない」というものは単なる刷り込みであり思い込みに過ぎないものである。

生活レベルを下げるということは、個人の経済活動を縮小させることを意味する。多くの人たちが生活レベルを下げると経済活動が停滞することになる。

政財官の権力者層は、経済成長至上主義的なイデオロギーを人々に強いるために、生活レベルを下げることは悪いことだとの刷り込みを続けるのである。

生活レベルを上げ続けること、あるいは最低限それを維持することによって、資本主義体制のシステムは回り続ける。経済活動の縮小を推奨するなんてことは資本主義を維持するためには自殺行為に等しいものなのである。

 

生活レベルをなかなか下げられない理由は「上からの刷り込み」以外にも理由がある。

それは収入減に至った当人の「見栄」とか「思い込み」といった個人に属する要因である。

一旦上がった生活レベルを下げるという行為は、何だか「落ちぶれること」「負け組になること」といったような気分に陥りがちとなる。単に収入が減った分だけの支出を削るという至極真っ当な行為なのに、そうとは受け取れないメンタリティとなる。

他人に弱みを見せたくないとか、一度経済的に上昇した自分の立ち位置を手放したくない、といった類の「見栄」がその人の心を支配するのである。

この見栄というものが厄介な代物で、見栄を捨てるということがなかなかできないのである。この見栄は上昇志向の原動力となる大きな要因のひとつなのである。

 

人の人生にはいろいろなことが起きる。病気になったり、会社が倒産したり、転職したり、リストラされたりと一筋縄ではいかないことが多い。

遭遇したアクシデントやリスクに対応して、生き延びるためにはその時々に応じた対応策を採る必要がある。生活レベルを下げることもそのうちのひとつである。

何の抵抗感もなく、さらりと生活レベルを下げることができる人は生存戦略を立てやすいし、かなりの高確率で生き延びることができる。しょうもない見栄やプライドに捉われている人たちは、最悪の事態に陥る危険性がある。

 

これからの世の中は自己啓発だとか成長といったキーワードではなく、「縮小」といったキーワードを重視した方がよいと思う。決してこれは後ろ向きのものではない。

右肩下がりの経済状況下では、「縮小」の場面に出くわす可能性の方が高くなる。

 

生活レベルを下げる、という営為を何のためらいもなく、しかも楽しんでできる人こそがこれからの世の中をうまくすいすいと泳ぎ切ることができる。

「縮小」場面に難なく適応できることが適者生存となるのである。