この社会には多くの矛盾がある。
この社会には数多くの歪みがある。
既得権者が己の利権をほしいままにするためのシステムを作り上げ、身内で独占しようとする。個人の能力差によるものよりはるかに超えた格差がある。
僕たちはこのどうしようもない社会による被害者だと思ってしまうことがある。
これはこれで仕方がない面がある。個人の頑張りだけではどうしようもないことがあまりにも多すぎる。
僕たちが社会の歪みや不公正さを言挙げするときに、自分が社会的強者から不当に収奪されている「被害者」の立ち位置に身を置いた方が話が見えやすくなることは否めない。単純な善悪二元論に落とし込んだ方が一見論点がすっきりすることもある。複雑に絡み合った問題が分かりやすくなるのである。
しかし、この分かりやすさが曲者なのである。
一昔前に「ロスト・ジェネレーション」に関する言説が活発になっていた時期がある。団塊ジュニアと呼ばれる世代が就職氷河期とぶつかり、思うような職に就けずにその世代の多くが意にそわない職に就いたり非正規雇用の職に就かざるを得なくなり、先行世代の犠牲になっているという論である。
僕はある程度は理解し共感はしたが、何だかもやもやとした違和感を覚えた。
それは「雇われて働くこと」「正社員であること」ありきの論議に思えたからだ。
確かに正社員と非正規雇用の両者には経済的格差が存在する。でも、正社員としての「身分」が確保されれば事足りるといえるのだろうか。本当にロスト・ジェネレーションと呼ばれる人たちは被害者だと言い切れるのだろうか。ただ、先行世代の価値観をなぞっているだけではないのか、と思えて仕方がないのだ。
社会的強者やあるいは先行世代によって社会的リソースを収奪されているというロジックは分かりやすい。一定層の人たちの共感は得られるであろう。
自分は弱者であるとか被害者であると言い立てて、収奪者(とされる者たち)から奪われたリソースを奪い返せ、という物言いはこちらも分かりやすい。昔のある種のマルクス主義者と類比的である。
しかし、自分を「被害者」という立ち位置に固定し、我に「義」があり我が「正義」だとする立場に安住すると思考停止に陥ってしまいかねない。これこそが大問題である。
僕は社会の不公正さやシステムの歪みに怒りをもって異を唱えることはとても大切だと思う。時には行動に移すことも必要である。
しかしながら、弱い者こそがあるいは被害者こそが絶対の正義である、被収奪者こそが異議申し立ての主体になり得るという考え方には同調できない。
なぜそう思うのかと問われて、論理的に説明することは僕にはできない。この違和感の根源を語る言葉がはっきりと見つからないのだ。
ひとつ言えることは、弱者や被害者、被収奪者のみが正義を行使しうるという思考様式が非寛容さを生み出し、その言動が排外的なものになり、転じて「抑圧者」になるおそれがあるということだ。
この世の中では一部の犯罪を除いて一方的な加害者・被害者という区分けはできない。同様に収奪者・被収奪者、社会的強者・社会的弱者という区分けもできない。
時と場合によってどちらにもなり得るものである。
被害者や弱者、被収奪者という立場に身を置くことによって果実を得られることもあるだろう。でも、それは「禁断の果実」かもしれない、と自省する態度をなくしてしまったら、人としての尊厳を損なうような気がしてならない。