人には承認欲求がある。
誰かからあてにされ、信頼されるとそれだけで嬉しい。
自分が誰かのために役立っていると、共同体の成員としての役割が果たせていると充実感を得ることができる。
しかしながら、誰かの「役に立っている」かどうかばかりに拘泥すると、時として精神的に追い詰められることがある。自分が役立たずな存在だと思ってしまったら(本当はそうでもないのに)、自己肯定感が損なわれてしまうことになる。
僕は誰かのために「役立つ」ということに殊更こだわらないメンタリティも時には必要なのではないかと思っている。
僕の全くの独りよがりの感覚なのだけれども、「有用」な存在であればいいのではないかと考えている。「有用」であるというのは直接的に役に立っていなくても、その人がいるだけで周囲の人や属する共同体に何らかのメリットが生じるといった感じのものである。
ある会社で直接的な利益をもたらしはしないけども、その人がいるだけで組織が活性化するといったタイプの人がいるとすれば(組織の人たちのモチベーションが上がる、宴会が盛り上がる等)、その人は有用な存在である。
野球のチームで技術的には劣るけれども、チームの雰囲気を盛り上げるのに長けているとか、雑用を黙々とこなすとかいったタイプの人も有用な存在だといえる。
かつて、名経営者や名監督といった有能なリーダーは組織を活性化させるような有用な人を重用していたという。直接的に組織に利益をもたらす人たちばかりを遇するのではなく、それ以外の目に見えない形で組織に貢献する人たちを決して見捨てたりはしなかったのである。
また、組織や共同体においても「縁の下の力持ち」的な有用な人がいればこそ、組織や共同体の力が強化できたのである。
昨今はこのような地味な貢献を果たす人たちを正当に評価していないような気がする。可視化された業績や成果によって人々を選別する傾向が強まっているのではないだろうか。いわゆる「できる人」ばかりを集めても組織や共同体は活性化しない。
人にはそれぞれ向き不向きがある。
人によってはビジネスシーンにおいての目に見える形での力量が劣っている場合もある。その手の人たちは排除されたり低い評価を与えられて「できない奴」というレッテルを貼られるだけでていいわけがない。
また、病気や高齢、障害を負ったりして健常者よりもある面で(特にビジネスの面で)力量が劣る場合もある。そのような人たちは決して無用な存在ではない。それらの人たちがいることによって家族の絆が強まったり、弱い立場に置かれた人たちへの思いやりが芽生えたりすることが多々ある。それらの人たちはやはり有用な存在なのである。
僕たちは「自己肯定感」があれば、世知辛いこの世の中を渡っていけるという感覚を持ち続けることができる。
自分が「有用」な存在だと意識できれば、この自己肯定感を損なうことはない。
人は誰もが「有用」な存在となれるはずだと僕は強く確信している。