希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

無職の人たちを冷たい目で見る社会は生きづらいという件

僕が無職の時、肩身の狭い思いをしていた。

よくよく考えればおかしい話である。無職とは単に今現在仕事をしていないだけの状態である。

心身の不調で仕事ができないだけなのかもしれない。

勤めていた会社が倒産してしまい、転職先が見つからないだけのことなのかもしれない。

単に仕事をしていないということだけで、その人の人格云々を言挙げするのはやはりおかしいと思う。

 

ただ、無職であることで被るデメリットはやはり少なくない。

賃貸住宅を借りようとしても大抵は審査に落ちる。

クレジットカードを作れない(ほぼ確実に審査に落ちる)。

世間体が悪くて、大っぴらに昼間に外を歩けなくなる。

これらは僕の実体験である。

 

なぜ、これほどまでに無職の人たちに対してネガティブな印象が刻み込まれるのだろうか。

労働至上主義的イデオロギーが蔓延していることのなせる業なのだろうか。働いていることがディフォルトとなっているこの社会のありようが、そうさせているとはいえる。

僕は無職の時に、例えば何かの申込用紙の職業欄には「自由業」とか「自営業」とか記載したりしていた。

新聞の投書欄で投稿者が高齢者の場合、年金生活者と名乗っているケースがある。無職と書くのは何となく憚られるのだろう。

 

無職であることは、今ただ単に仕事をしていないだけの状態のことである。

長い人生の途上で、たまたま仕事に就けていないなんてことは普通のことである。決して異常なことではない。なのに、時として無職であることはあたかも犯罪者予備軍的な扱いを受けることもある。

確かに稼働年齢の人が昼間っからぶらぶらしているのは見栄えが良いものではない(この感覚も偏っているとは思うが)とされている。

よその国の事情は僕にはよく分からないけれども、この国のようにこんなに無職の人たちを白眼視しているのだろうか。

 

嫌でたまらない今の仕事をなかなか辞められない人たちが多い理由の一つとして、辞めた後の「無職」の状態になってからの世間からの冷たい扱いに耐えられないということがありそうだ。

働いてさえいれば、一応は「真っ当な社会人」として見られる。

無職となれば、優れた資質を持っていようとも、何かが欠けた人として見られる。

世間の目を気にして生きている人たちからすれば、このことは案外と大きいものである。

 

僕は無職の人たちを積極的に支援する社会保障制度を構築しろ、とまでは思わない。必要最低限の支援で十分だと思っている(現行の支援策は不十分だと思うが)。

ただ、もっと「ゆるい社会」であってくれればなあ、とはいつも思っている。

無職の人がいても、「ああ、そうなのね」「まあ、ぼちぼちと頑張って」といった程度のリアクションを採るようなゆるい社会であればと願っている。

ある程度のゆるさがあり余裕のある社会であれば、きっと生きづらさは軽減されるはずである。