僕たちは子供の頃から、「逃げてはダメだ」「困難なことにぶつかったら、正面突破しろ」と刷り込まれ続ける。逃げることは悪ということが教育的指導となるのである。
これはこれで間違っているとは言い切れないが、時として悩んでいる人たちを袋小路に追い込む危険性を孕んでいる。
僕はこれまでの人生で何度も「逃げてきた」経験がある。
小学校の時の不登校がそうであり、新卒で勤めていた公務員を辞めた時もそうであり、40代を過ぎて真っ当に働くことを辞めた時もそうである。
こんなヘタレな僕だけれども、遭遇した困難な出来事から逃げ続けることはいけないと思っている。困難なことに正面からぶつかって、そこから得られるものがある、ということも分かっている。
しかしながら、時と場合によっては、逃げることもありなのではないか、とも思っている。
もし、僕が不登校という手段を取らずに我慢して学校に生き続けていたらどうなっていたのだろうか。回復困難な精神疾患に罹っていた可能性があっただろう。
もし、僕が公務員を辞めずに我慢して勤め続けていたらどうなっていたのだろう。最悪の場合、過労死か過労自殺をしていたか、重い心身の疾患に罹っていたか、考えただけでぞっとする。
自己正当化と弁解になるけれども、僕はあの時逃げたおかげで、今どうにか生き延びることができている、と思っている。
本当に自分の力ではどうにもならない状況に陥った時には、周囲の無責任な声など無視して(周囲の人なんて大抵は無責任なものだ)、生き延びるための手立てを講じる方がよい。その手立てが「逃げること」ならば、迷わず一目散に逃げだした方がいいと思う。
「我慢しろ」とか「根性を出せ」とかいう精神主義的な同調圧力には抗うことだ。
逃げることが悪というイデオロギーは強者の論理である。あるいは支配者の論理である。
「逃げるが勝ち」という俚諺もある。こちらの言葉が真理を言い当てていると僕は思う。有能な将軍や司令官は撤退戦、つまり逃げることが上手い者のことだといわれている。
この世知辛い世の中、うまくすいすいと渡っていくキモは逃げ場を用意して、うまいこと逃げることなのではないだろうか。
ひきこもりやニートの人たちに「逃げている」と負のレッテルを貼るだけでは何も解決しない。逃げることが善とまではいかなくても、悪いことではない、との共通認識を抱かせるだけでも、光が見えてくるように思う。
ひきこもり等の極端な例でなくても、今ここにある自分に居場所がなく、逃げ場所がないという人たちは多くいて、日々苦しんでいる。
そのような人たちに力を与えるのは、もしかすると「今自分のいる所から逃げたとしても、何とかなる」という事例の積み重ねかもしれない。それは「がんばれ」という無責任な掛け声よりも、何十倍、何百倍の力を与えるものとなるはずである。