僕は今学習塾の講師をしている(非常勤で)。
かつては10年近く高卒者や社会人対象の専門学校の講師をしていたことがある。
学習塾や専門学校の講師は同じ「教える仕事」の公教育の教員とは異なる点が多々ある。
それは学生の「人格形成」や「人間的成長」には深く関わらない点である。
学習塾の講師は、生徒の学力、具体的にはテストの点数を上げること、志望校に合格させることが第一義である。
専門学校の講師は専門知識を伝授することが第一義となる。
これらの講師業は割りと僕の嫌いな「精神主義」的要素が少ない点が良いところだと僕は思っている。極端に言えば、ドライに割り切って教えることができるのである。
授業や講義を受ける態度が目に余るほどひどいときは注意をするが、それは教室の秩序維持のためであって、その生徒の意欲や態度そのものを問題にして成長を阻害するとかより良き社会人になるためといったお題目を掲げているわけではない。
本人に意欲が欠けていてもそれは本人の問題であって、他の生徒の邪魔にならなければ仕方がないと割り切るのである。この割り切りがなければ、塾や専門学校の講師なんてやっていられない。有体に言えば、当該の生徒の人間的成長とか人格の形成なんて二の次なのである。
ドライであると思われる塾や予備校の講師の中で、とても人気が高い講師が時々登場する。そんなにカリスマ的ではない講師でも、懐く生徒がいる。それは学校の教師にはない人間的な魅力を塾や予備校の講師が持っているという場合もあるが、一概には言えない。
僕のようなヘッポコ講師でも、時々懐いてくる生徒がいる。
その要因としては何より各生徒の人格にまで関わらない付き合いをしているからだと僕は思っている。例えば、宿題をしてこなかったからといって、「人としてダメなんだ」という注意の仕方はしない。ただ単に、カリキュラムについてこれなくなるよ、とか他の生徒より学習進度が遅れて君にとって不利になるよ、といったリアリスティックな理由で注意をするだけである。
学校の先生、特に小中学校の義務教育に関わる先生は学科の指導だけでなく「生活指導」までを担わされているところが辛いところだと思う。生活指導をするとなると、どうしても生徒の人格や性格あるいは意欲といった内面にコミットすることになる。
僕にも覚えがあるが、学校の先生(という大人)に自分の内面に踏み込まれるほど鬱陶しいことはない。これによって生徒と先生の関係がギクシャクすることになる。どうしても公教育では先生と生徒の関係が支配ー被支配の関係になってしまう。
かと言って公教育の義務教育で生活指導的なものをすべて放棄することはできない。社会に順応できる「市民」を養成することも公教育の役割である。
僕が学習塾や専門学校の講師をどうにか務めることができてきた理由は、わりと生徒との関係がフラットであり、ゆるさがあったからである。
また、学習塾は勉強の場であるとともに、生徒にとってのアジール的な場という性質もある。
僕は生徒たちには、先生や親とは「一味違った大人」として接していきたい。真っ当な大人たちである親や学校の先生とはちょっとずれた価値観を提示できればとも思っている(ただしその価値観を強制しない)。
こんなダメ人間でも、どうにかこうにかこの歳まで生き延びることができている、ということを伝えるだけでも、ちょっとだけ意味があると密かに思っている。