希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

僕が11歳のとき、不登校児童だったときの話をしてみるという件

以前にも何度かこのブログでふれたことがあるが、僕は小学校5年生のときに不登校になったことがある。

今回のエントリーでは、その時のことを思い出し、これまでよりもちょっとだけ詳しく書いていこうと思う。

 

僕は小学生の頃は食べ物の好き嫌いが多い子どもだった。肉類が全くダメで、特に脂身が最も嫌いで口に入れただけで戻してしまうくらいであった。

小学校4年生までの担任の先生は、あらかじめ嫌いなものを取ってくれるという配慮をしてくれていたから、大事に至らずに済んでいた。

ところが5年生になった時の担任は「給食は絶対に残してはならぬ」という方針の先生だった。今だったら大問題であるが、当時はそれがまあ普通だった。僕は肉が入ったおかずの時、当然に食べることができず、昼休みが終わっても残されていた。他の生徒は泣きながら嫌いなものを口に押し込んだりしていたが(中には吐いてしまう子もいた)、僕は頑強に抵抗し続けた。そして担任は根負けし、「僕だけ」給食を残しても良いことになったのだ。

ここからが問題である。僕だけが特別扱いされたことを快く思わない生徒が数人いて、彼らが僕を目の敵にするようになった。今となってははっきりと覚えていないけれども、いじめらしきことを僕は受けるようになった。

 

そんないじめを受け始めたからほどなく、僕は登校前になるとおなかが痛くなったり吐き気をおぼえるようになった。僕は学校を休みがちとなった。

当時は不登校や(登校拒否と呼ばれていた)精神疾患に理解がなかったので、対策が後手後手にまわった。そして、2学期になるころには、僕は常に吐き気に襲われるようになり、食事ができなくなった。また、夜眠ることができなくなり、死ぬことの恐怖に怯えるようになった。両親は僕をカウンセリングや催眠療法のクリニックに連れて行ったが、効果は捗々しくなかった。担任はと言えば、一度も家庭訪問もせずに放置し放しだった。まあ、当時はそんなものである。不登校は「怠け病」とみなされていて、学校側からのケアなぞ皆無だったのだ。

僕はこのまま死んでしまうのか、あるいは学校へ行かないまま廃人のようになってしまうのか、とぼんやりと考えていた。

 

僕を救ってくれたのは友人たちだった。

僕が学校を休みだしてからも家に遊びに来てくれた。その中には僕をいじめていた連中も含まれていた。後から聞いた話によるといじめをした連中は自分たちがいじめていたとは思っていなかったらしい。ここがいじめの怖いところであり根深い問題が存在しているところである。

僕の家に遊びに来てくれた友人たちは「学校へ来い」とは言わず、「まあ、気が向いたらいつでも来たらええやん」という感じで僕と接してくれた。これで僕はかなり気が楽になったことを覚えている。

いつしか体調も回復し、精神的な変調もほぼ良くなった。

僕は6年生になってから学校に復帰し、1学期は午前中だけで早退し、2学期から午後の授業も受けるようになった。

 

僕の不登校体験は今の不登校事案と比較するとかなり恵まれていたと思う。あの頃はまだ子ども同士の横のつながりが強く連帯感があったし、「子どもだけの世界」があって自浄作用的なものがあったように思う。

僕は子どもだけのコミュニティの力やその連帯感に助けられたのだ。

僕をあの地獄から救い出したのは精神医療の力とか学校システムの力によってではない。

 

僕の不登校体験は僕だけのあくまでも個人的な体験であって、僕の経験を普遍化することはできない。だから僕は不登校に対しての効果的な対応策なんかは分からない。

ただ、僕は学校(特に義務教育)なんて「死ぬ思いをしてまでも行かなくてもいいところ」とは思っている。学校制度や教育システムというものは近代国家が国家に従順な兵隊や労働者を生み出すシステムに過ぎないものである。

学校なんてものは、生きていくうえで絶対的に必要なものでない、という醒めた見方をすることが時には必要なのかもしれない。