希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

弱い立場にある人たちを救済しないと、その共同体の存続は危ういという件

病気や加齢や失業、障害を負うことによって弱い立場に置かれた人たちを救済する、いわゆる社会保障セーフティネットについて語るとき、個人の尊厳や人権にフォーカスすることが多い。この視点の危ういところは、社会保障の拡充や整備を快く思わない人たちがすぐに自己責任論にもっていくところである。失業や病気(時として加齢や障害についても)は自分で責任を負うべきものであり、個人の救済は不要とする論である。

セーフティネットを拡充すべきという立場で語るときもついつい「個人の権利」ばかりに目がいってしまい、反対派の「権利あるところには責任が伴う」という反論に足を掬われてしまうことになる。

そこで、弱い立場にある人たちを救済する根源的な理由としては、人々が属する共同体の存続のためにはそれが是が非でも必要である、という視点から考えてみる必要がある。

 

共同体や組織を強化するためには、その成員を屈強な人、賢明な人、勤勉な人、忠誠心のある人のみで固めればいいと考えがちである。いわば「強い」人たちを集め、そういった強い人たちばかりで共同体を構成すれば完璧な共同体が作れるというわけである。

ところが、実際はそのような一見強そうな組織や共同体は危急の際には脆くてすぐに崩壊することが多い。過去の歴史はこのことを雄弁に物語っている。

共同体のシステムの内部に弱者救済の仕組みを埋め込んでおかないと、危機的状況に陥った時にそのシステムは機能しなくなるのである。

 

国家にしろ、会社にしろ地域コミュニティにしろ、人の集まる共同体では弱い立場にある人たちの居場所を確保しておくことが、その共同体の存続のための有効な戦略となる。

古代の人類の遺跡から全ての歯を失くした老人や身体に障害があったと思しき遺骨が幾つも発掘されている。現代に生きる僕たちは狩猟採集生活を送っていた古代人の社会では歯を喪失したり(固い食物が食べられない)、障害を負ったり(狩猟に参加できず、移動にもついていけない)すればそれらの人たちは見捨てられて野垂れ死にしたと考えがちである。しかし、そういった人たちの遺骨が発掘されているということは、集団の中で見捨てられずに助けられて生き永らえていたと推測される。

古代人は自分たちが属するバンドを存続させるために、一見足手まといに見える老人や障害を負った人を助けて、バンドの成員全員が生き延びることができるようなシステムを採用したのである。

そして、人は弱っている人たちを見捨ててはおけないというメンタリティを本質的には有しているのである。

 

共同体はその成員の中で最も弱く、非力な人たちであってもフルメンバーとして、尊厳を保たせながらそれぞれの立場で責務を果たすことができるように制度設計されなければならない。このことは先人が僕たちにもたらしてくれた大いなる智慧である。

この先人からの智慧を具現化したものが、社会保障制度であり各種のセーフティネット

である。

社会保障制度やセーフティネットを権力者の都合や利権のあるなしで骨抜きにして、個人や家族に弱者救済を押し付ける所業は先人の営みを全否定する愚行である。

 

社会の中で弱い立場に置かれた人たちを救済するための制度やシステムは個人の権利を守ったり、個人の尊厳を保つためだけにあるのではない。

僕たちが属する共同体(国家・地域コミュニティ・職場・学校等)を存続させ、崩壊させないためにこそ、それらはある。