希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

無知であることを恥と思わないと、そこで終わってしまうという件

僕は大した学歴を持っていないし、職歴も大したことはない。

人に誇れるキャリアもないくせにこんなブログを書き続けるのはいかがなものか、と時々自分に問いかける。

ダメ人間にはダメ人間なりの矜持や誇りがある、と自分に言い聞かせながらこのブログを書き続けている。決して「上から目線」にならないようにと気を付けている(たまにちょっとだけ上から目線になってしまうけど)。

 

僕が人に誇れることがあるとすると、それは知的好奇心が子どもの頃から旺盛だったという点である。学校の勉強、予習復習なんて全然しなかったけれども、親が買ってくれた百科事典や少年少女文学全集などを暇を見つけては貪り読んでいた。成績を上げることには直接つながらない学びをずっと続けていたのだ。自分の知らないことを知ることに快感を覚えていたのである。このメンタリティは今も殆ど変わらない。カネ儲けや仕事に関係ないことばかりを、社会の成り立ちや人とはいかなるものかという根源的な問いに対する答えを知りたくて学び続けている。

 

僕はカネ儲けの能力が不足していることや会社内での職務遂行能力が欠けている等々のことを指摘されても何も感じない。けれども、「無知」であることを晒されることを極端に嫌う。無知であることは最も恥ずべきことだという刷り込みがなされているのだ。

だから、「教養」というものにこだわり、それをいかにして身に付けようかということに執着している。カネにもならない知識、カネ儲けの役に立たない知識なんて不要だという考えには決して与したくない。

 

現実的にはいくら学び続けても、この世にある膨大な知の集積のごく一部しか得ることはできない。客観的に見れば、僕がいくら知識を得ようとしても、ずっと「無知」なままである。

それはそれで仕方がない。

人は有限の時を生きているのだから、得られる知も自ずと限りがある。

しかし、この社会の成り立ちについて少しでも理解できればいい。複雑に絡み合った物事をひとつずつ解きほぐす営為を続けることが重要なのである。

「無知」の度合いをちょっとだけでも低くできればそれで十分である。

自分が知らないことがあることを知ることが大切なのである。自分が知らないことがあることに何も感じないのがダメなのである。ひとつでも知ろうとする態度を取り続けることが僕のなすべきことである、と自分に課すことが僕を「無知」の沼から脱せさせることにつながると信じている。

 

繰り返しになるが、僕は「無知」であることは恥だと思っている。

さらに言うならば、「無知」であることを気付かないこと、「無知」のままでいることに何も感じないことを恥だと思っている。

知識を得て、衒学的な振る舞いにそれを利用することは最も忌み嫌うところである。

自分が得た知は楽しく面白く生きるために使いたいし、微力ながら世の中を少しでも良くするために使いたい。

僕の取るに足らない人生でも、「無知」を恥だと思うことで、ちょっとだけでも意味のあるものにすることはできそうな気がする。