希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

困っている人を目の前にしたら、手助けするのは当たり前ではないの、という件

世の中には様々な理由によって困っている人たちが沢山いる。

自分の周囲にも悩んで困っている人たちがいるかもしれない。

僕は「困っている人がいたら、自分ができる範囲で構わないから助けなさい」という教えを受けてきた。この教えが当然のことだと思ってきた。

昨今の生活保護受給者バッシングをはじめとする弱者に対する無慈悲な振る舞いを見聞きすると暗澹たる気持ちになる。

 

生活に困窮している人を見たら、食べ物と着るものと寝る所を提供することから手助けは始まる。そして食つなぐことができるような仕事の紹介をする。

貧困の根源的な解決や経済的格差がなぜ起きるのかそれをどう解消するのかといった「大きな問題」としての問いかけは一先ず横に置いておく。一般論や本質論を語っても仕方がないし、している場合でもない。

成績が伸びずに悩んでいる生徒がいたら、勉強の効率的なやり方を教える。

「学ぶ」ということは一体どういうものなのか、学ぶことの本義を追求するなんてことは別の話となる。

親の介護に悩んでいる人がいたら、介護保険制度でどのような対応ができるかをまず考え、実際に申請して制度の適用を受けるようにする。これまた介護のあり方とか家族のあり方といった抽象的な論議は別次元の話となる。

 

実際になんらかの問題で困っている人がいれば、具体的な手立てを講じて、いまある状況を改善するようにしなければならない。

この手の話をすると、問題の根本的な解決にはならないとの批判を受けることがよくある。確かに制度設計や社会システムに手を入れなければならず、そうしないと同じような悩みを抱えた人たちが次々と生まれてくることになる。

しかし、政府や自治体の責任や不作為を言い立てるだけではどうにもならない。

今、この状況で自分ができることを確実にやってみる、という営為を続けることが問題解決の第一歩となり、その先にようやっと光明が見えてくるものである。

 

「ありあわせのもの」で何とかする、ということが大切な場面もある。ないものねだりでは何も解決しないケースも多々ある。

実際に目の前に困っている人がいれば、「ありあわせのもの」を寄せ集めて手助けをするしかない。このような「機能主義」的振る舞いが最も有効な手立てとなる。

現実に今ここにある救済策・手立てによって困っている人たちに対峙することは決して退嬰的な振る舞いではない。

 

昨今の風潮として、「迷惑をかけること」「迷惑をかけられること」を極度に忌み嫌うということがある。

人が生きていくうえでは、迷惑をかけて、迷惑をかけられてナンボなのではないだろうか。「迷惑」は人と人とをつなぐ媒介であって、決して忌み嫌うものではない。

 

僕は本音としてはあまり迷惑をかけられたくない。

実際に僕の目の前に困っている人が立ち現れたら、どこまで手助けができるか、あまり自信がない。

しかし、僕なりの「ありあわせ」のもので機能主義的に振る舞いたいとは思っている。

困っている人を見捨てたり、見放したりしたときの後味の悪さや後悔の念に捉われたくないから。

人として最低限の矜持を持っていたいから。