人事考課ほど胡散臭いものはない、と僕は思っている。
人が人を査定し選別するなんておかしいし時に滑稽に思える。雇われて働くことに息苦しさを感じるのは、このしょうもない人事考課が実際には働く人たちの生殺与奪を握っているからだ。
初出 2018/1/9
就職活動や転職活動をしていて不採用ばかりが続くと、自分という存在を否定されたような気になってしまう。特に新卒の就活の場合においては職歴を持たないが故に「人間性」を試された感じになってしまいその傾向が強まる。
僕のように世間ずれした人間からすると、会社に採用されない程度のことでは落ち込まない。採用担当者に見る目がなかっただけさとうそぶくだけのことである。
たびたび人事のプロだとか採用のプロだとか自称する輩がメディアに登場する。彼らはそれらしきことを言い立てている。
僕はその手の人物を全く信用していない。「人を見る目」なんてちょっとやそっとのことでは身に付けられないものである。たかだか20年や30年会社という檻の中で養った力なんて限定的なものである。
会社の人事関連部署に属する採用担当者が見極められるのは、自分の会社でうまくやっていけそうかどうかだけである。自分が所属する会社に合うかどうか程度のものである。それさえも良く間違う。面接の相手がイノベーションを起こせそうな人物か、会社を背負って立つほどの人物かなんて分からない。
ある会社の採用試験に落ちたって、その人の価値を毀損するものではない。その会社のローカルな判断基準にマッチしなかった、それだけの話である。それも「人を見る目」がない担当者によってなされるものであるから、全く気にすることはない。
採用担当者と同様に殆どの上司も「人を見る目」なんて持ってはいない。
「うちでやっていけないような奴はどこへいってもダメだ」といった物言いをするバカ上司がいる(僕もかつてよく似たことを言われたことがある)。この手の物言いをする上司は無能だと断言できる。その会社のローカル・ルールしか知らず、その会社で「うまくやってきた」だけで管理職になった程度の人間に「人を見る目」なんてないのである。部下の能力をその会社の度量衡にあてはめることしかできないのだ。あるいはそれさえできず、自分の主観(それも狭量な価値観に基づく)でしか判断できないのである。
「人を見る目」とは、様々な人たちとの関わりの中で人というものはいかなるものかを深く掘り下げてとらえる営みを不断に続けることによってようやく身に付けられるものである。時には裏切られたり、時には手を差し伸べられたりしながら、人の持つ高潔さや猥雑さを実感しながら、肌感覚で身に付けるものである、と僕は思っている。
「人を見る目」とは、その相手が自分たちが属する共同体において自己利益を極大化するのではなく、共同体を維持し発展させるためにパフォーマンスを最大化し、そのことによって共同体の利益に資することができるような人物であると見抜くことである。
「人を見る目」を持っている人なんてそうそういない。だからこそ希少価値がある。
経営者や人事採用担当者や上司といった人たちに「人を見る目」なんてないのは当然であって、そんなことまでを求めるのは酷なことである。
それゆえに、上司や人事採用担当者が下した人物評に一喜一憂することなんてないのである。