希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

家族を解体するように誘導して、すべての責任を家族に押し付ける愚、という件

殊更に「家族の大切さ」を説く人たちがいる。

自称保守派、民族派といった右寄りの人たちである。

自民党政権は代々家族というものに固執してきた。

高齢者介護、障がい者のケア、育児、教育といった問題の解決を家族に押し付けてきた。

 

近代以降、「個の確立」を押し進め、自己責任・自己決定イデオロギーが絶対善とされてきたが、それは地域共同体からの離脱を図ることとなった。同時に家族の解体を促す要因ともなった。

さらには資本主義体制の純化がそれをさらに促していった。

 

具体的な話をすることにしよう。

例えば家電製品のテレビ。

家族が仲良く過ごしていると居間に一台テレビがあれば事足りる。それでは需要がすぐに充足されてしまう。では家電メーカーは何を望むか。家族がバラバラになることである。ひとつの家の中で家族が自分の部屋を持ちそこに籠ることである。そうなれば、家族のひとりひとりがテレビを欲することになる。あるいは子供がある一定の年齢になれば、家族から離れて住むようになるように仕向けることだ。世帯単位の人員が少なくなればなるほど、ひとり暮らしをする人が増えれば増えるほどテレビは売れることになる。これは冷蔵庫や洗濯機等についても同様である。

 

資本主義体制の社会では大家族は悪なのである。

極端な話、核家族(しかも家族の成員がそれぞれバラバラの)とひとり暮らし世帯が増えることが都合が良いのである。

家電製品に限らず、様々なサービスが(たとえば家事代行サービス)旺盛に消費されるためには家族の単位が小さくなりかつ家族の成員がバラバラになればいいのである。

個人が良き消費者となるためには無償で提供される家族内の家事提供が障壁となるわけである。

 

近代社会の支配的なイデオロギー個人主義、自己責任・自己決定等)と資本主義の論理は家族の解体を促すことになる。この流れを完全に覆すことはかなり困難である。

ならば、従来家族が担っていたとされるもの、介護や育児、看護等は社会全体で担う方向に進めなければならない。社会保障の拡充を図るべきとなるはずである。

しかし、この国ではそうはなっていない。

介護の分野では介護保険制度が導入されて久しいが、そのサービス内容は質量ともに不十分である。

医療の分野では、在宅医療が推進されているが、これは表向きは住み慣れた家で療養することで個人の尊厳を尊ぶということになっているが、実際は医療費の削減を図るものである。

保育所の待機児童の問題は解決されないままでいる。

要するに資本主義の論理を突き進めて家族の解体を図り、様々な問題が生じたらこれまた資本主義の論理でその解決を家族に押し付けているのである。

 

新自由主義を信奉する人たちは公的な社会保障制度が人心を荒廃させ、社会システムを壊すと主張する。

保守的な陣営に属する人たちは家族が大切であり、社会的な問題については家族が担うべきだと主張する。

これらは明らかに矛盾している。これに気付かないのはなぜだろうか。

あえて問題の根底にあるのを隠蔽しているか、あるいは本当に矛盾に気付かないほどに知的な劣化が起こっているのかである。

 

現行の資本主義体制を受け入れている限り、家族の解体という流れを押しとどめることは困難である。社会保障の拡充にも限界がある(しかも現政権は社会保障の切り下げを志向している)。

どうすればいいのか僕には分からない。

ただ、今の社会システムは家族を解体させる圧力が働いているということを自覚するしかないように思う。そのうえで自分なりの家族観を持ち、自分ができうるかぎりの自助努力を果たすしかないように思う。自分がどれほど家族を大切に思うかということである。決して「上から」の「家族は大切」というイデオロギーの押し付けに屈せずに。