希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「普通の人たち」の善意がこの社会を狂わせることもあるという件

戦前の軍部では「動機が善ならば、何をしても許される」という空気が蔓延していたという。

「お前のためを思って~」という善意の押し付けがパワハラまがいの相手への抑圧を生むこともある。

善意によって生み出された言動によって、相手に害を与えてもそれは許されるという風潮はとても危ういものである。

 

戦前のこの社会においては普通の人たちが善意をもって体制に従わない人たちに対して「非国民」のレッテル貼りをした。この自分はお国のためを思い、お国のために働いているのに、お前はそうではない、と相手を詰り、自分の善意(それは偏狭な価値観による自意識に過ぎないが)を相手に押し付けるという行為が正当化されていたのである。

また、戦前のドイツにおいてナチスを熱狂的に支持したのはいわゆる普通の人たちだった。

 

繰り返し巻き起こる生活保護バッシングもその主体は「普通の人たち」である。生活保護受給者を責めることで得をするわけでもないし、邪悪な心をもって貧困者を貶めているわけでもない。バッシングをする多くの人たちは正義感とか善意の心によって、受給者を叩き、自分を「正義の側」に置くことによってカタルシスを得ているのである。

 

体制にまつろわぬ人たちに非国民呼ばわりするのも、生活保護バッシングをするのも善良な市民である。また、禁煙ファシズムとも呼べる喫煙者バッシングに興じるのも、これまた善良な市民である。

これらの「善良な市民」は、「自己批判精神」と「繊細な精神」を徹底的に欠いた人々である。

 

社会的弱者やマイノリティに属する人たちを執拗にバッシングする人たちは、扇動者やイデオローグに一方的に踊らされた人たちではない。

一見「善良な市民」と思しき人たちが、善意の気持ちから(あるいは善と信じて)あるカテゴリーに属する人々を執拗に叩くこと自体に危険性を孕んでいるのである。

善良な市民はマジョリティに属する人たちである。マジョリティがマイノリティを抑圧することは実は民主主義社会ではしばしば起きることである。民主主義とは、建前では少数者の意見を尊重するということになっているが、実は多数派が少数派を抑圧するシステムに過ぎないのである。

 

確信犯的なイデオローグや扇動者だけの力では社会は変わらない。善良な市民が暴走することによって、変革(良い意味でも悪い意味でも)が起きるのである。

マジョリティがマイノリティを抑圧することを正当化するためのイデオロギーが民主主義には内在している。一旦、マジョリティが寛容さを欠くような事態に陥ると、どのような社会でも一元化された価値観に基づく「一定の流れ」に雪崩を打つ危険性がある。

特にこの国は付和雷同的性質が強い。

 

善良な市民は常に暴走の危険性を孕む存在である。ひとりひとりは常識や良識を持つ良き市民ではあるけれども、ちょっとしたきっかけで弱者やマイノリティを執拗にバッシングする存在に変わりうる。

このマジョリティに属する「普通の人たち」の善意がこの社会を誤った方向に押し流す可能性を常に秘めている。

これらのことを押しとどめる方策は僕には分からない。

ただ、言えることはマイノリティや社会的弱者に対する「想像力」を欠かさないことではないかということだ。決して同情や共感ではない。

自分とは価値観や感じ方が違う人たちがいる、いてもいい、という構えを取るだけでも十分である。かなり楽観的な考え方ではあるけれども。