希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「取り越し苦労」なんてしすぎない方が良いという件〈再掲〉

先のことなんて分からない、と頭では理解していても僕たちはついつい取り越し苦労をしてしまう。これは人としての本能なのか、あるいは後天的に身についた行動様式なのか、僕には分からない。

いずれにしても、先々のことをあれこれ考えて自分の行動にブレーキをかけるのは、賢明ではないと思う。

 

初出 2017/12/21

 

この先どうなるかなんて誰にも分からない。

分かり切った話である。

しかしながら、予測がつかない未来のことについてあれこれと考えて「取り越し苦労」をする人が多い。

一方で今の状況が過去の時点においての未来予測の内容と食い違っていることが殆どである。未来なんて予見不可能なものである。

 

取り越し苦労は未来予測が可能という前提の下で成り立っている。

老後の生活を若い時分から心配して老後資金はいくら必要なのかと気を揉む。

今の楽しみを放棄しても将来のために我慢を重ねる。

今勤めている会社にずっと働き続けられるのか分からない、リストラされるかもしれないと恐れて自己啓発に励む。

未来予測は不可能だと頭では分かっていもついつい取り越し苦労をしてしまう。

このジレンマはなぜ起きるのか。

色々と要因はあるけれども、そのひとつとして「不安感」を払拭したいと切望するからである。将来の見通しが立たないと人は不安になる。その状態に耐えられないのだ。

 

ビジネスの領域では、ネガティブな未来予測を立てて、そのリスクに備えることが善とされている。リスク・マネジメントができない会社あるいは個人はビジネスの能力に欠けるというレッテルを貼られるのである。

確かにリスクに対する備えは必要である。リスク・マネジメントができない会社には未来がないと言われている。

しかしこのことはあくまでビジネスの世界での話であって、人の生き方・生き様にすべてを適用することはできない。

 

とはいえ、人は取り越し苦労をすることによって生き延びてきたことは否定できない。分かるはずもない未来についてあれこれと思いを巡らせ、その度ごとに最悪の事態を回避してきたと言える。

他方で取り越し苦労をすることによって行動の選択の幅が狭まり、それによって自分の行動が縛られがちだとも言える。

取り越し苦労という思考法・行動様式は取り扱いが難しいものなのである。

取り越し苦労を全くしない人はただの能天気であり、それをやりすぎると極度の心配性となる(時として神経症的になる)。

 

今のこの世の中で僕たちは取り越し苦労ばかりをさせられて生きている。

個人の性格や資質によって取り越し苦労の度合いも変わってくるのだろうが、やはりこの社会のありようによってそれの度合いが決することが多いと思う。

いつのどの時代においても人は程度の差こそあれ「取り越し苦労」をしてきたはずである。人が作り上げた社会というものは不確定要素が多すぎて、その社会の中で生き延びていくためにはできないとは分かっていても常に何らかの未来予測をしてきたのである。

 

僕たちはこれからも(社会がどのように変化しようとも)「取り越し苦労」をし続けなければならないのかもしれない。

良いように言えば、取り越し苦労をするということは生きている証なのである。

しかし、ものには限度がある。

取り越し苦労ばかりをしすぎるのもどうかと思う。

先のことなんて分からないけれども良い意味でも悪い意味でも「なるようにしかならない」と開き直るメンタリティをもっと持ってもいいのではないかと思えてならない。

そして大抵の場合は「なるようになって」、「何とかなる」ものである。

楽観的に過ぎる考え方かもしれないけれども。