希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

将来のために今は我慢するという生き方を見直してもいいのでは、という件

僕のようなダラダラとした生き方をしていると「老後は不安にならないの」とか「将来苦労するぞ」といった類の忠告を受けることがある。

この手の忠告は真っ当で正しいものである。世間の人々に浸透した価値観である。

 

将来をより良くするために今は大概のことは我慢する、という考え方は僕たちが子どもの頃から刷り込まれた価値観である。

要するに享楽的に生きていてはダメだということだ。アリとキリギリスの寓話に喩えるとアリのような生き方をしなければならないということである。

確かにこのような生き方は右肩上がりの成長期には説得力があったし有効なものだった。今は経済的にも精神的にも苦しくても、将来のためになる、努力は報われると多くの人たちは了解していたのである。

 

僕も働き始めた頃はこの「将来は報われる」教の信者だった。つまらない仕事も我慢してこなし、バカな上司に従い、同僚の同調圧力に耐え続けていた。

僕が働き始めたときはバブル期であり、右肩上がり成長の幻想の残滓があったのだ。

僕が「将来はどうなってもいい、好きなようにしよう」と思ったのは、公務員を辞めた後、阪神淡路大震災に被災したからである。人はいつ死ぬか分からないということを実感したからだ。先の見えない不確定な将来のために、今を犠牲にすることがバカバカしくなったのである。

 

傍から見て享楽的に生きている僕ではあるけれども、そんな僕にも将来に対する不安はある。しかしこの不安からは生きている限り逃れられず、常に付き纏うものである。

先のことは分からないからこそ面白い、と僕はそう考えるようにしている。

また、大抵のことは何とかなると楽観的に構えている。「その日暮らし」で十分だと鷹揚に構えている。

 

人々が将来の不安を減らし、今を大切にしだすと困る者たちがいる。

支配者層やそれらにぶら下がっている者たち。不安を煽って既得権を得ている者たち。

陰謀論に与する気は毛頭ないが、人々が享楽的に生きると利益を得られない者たちが確かに存在している。

 

人はいつか必ず死ぬ存在である。

たとえどれほど財産を築いても、高い社会的地位を得ても関係なく人は死ぬ。

限られた生をどのように全うするかが最も大切なことなのである。

将来というものはあるようでないようなものだとも捉えられる。一方、「今」というものは確かにここにある。今を充実させなければ、将来もへったくれもない。

 

僕は将来のことなんかまったく考えなくてもいい、と言いたいのではない。

必要以上に将来のことを憂い、そのために今を犠牲にするのはいかがなものか、と言いたいだけなのだ。

今という時をいかに充実させるかという営為を続けることが将来にもつながる、と僕は信じている。

まあ、要するに将来のためという免罪符を設けて、今目の前にある様々なことから逃げるということはしない方が良いということだ。同時に不必要な我慢もしない方がいい。

先のことは分からないけれども、滅多に最悪なことは起きない、と開き直ってみるのも妙手だと思う。