僕は「ヘタレ」である。
このヘタレという言葉は元々は関西圏で用いられたものだと思うが、テレビのバラエティー番組で屡々使われることによって人口に膾炙するようになった。
「ヘタレ」という語の持つ意味は、少々ニュアンスが異なるが、根性がないこと、すぐに泣き言を言うといった感じのものである。ただ、ヘタレは全くのネガティブな意味合いだけではなく、愛すべきものといった意味合いが込められているように思う。
さて、冒頭にも書いたように僕は典型的なヘタレである。
僕には根性がない。嫌なことをし続けることには耐えられない。
声の大きい人に対してはなかなか物が言えない。
時々、このブログでは強気な意見を吐くことがあるが、もし炎上したらかなり凹む。
もし仮に「労働忌避者処罰法」なるものが制定されたら、僕はいやいやながらも進んで労働に従事する。だって痛い思いや辛い思いや怖い思いをするのは嫌だから。警察に捕まって厳しい取り調べを受けたりしたら、僕はすぐに自分の非を認めて囚われの身から脱することを欲するはずである。
僕は弱い人間であり、ヘタレなのである。
僕が殊更に根性論や精神論を忌み嫌うのは僕がヘタレであるからだ。同様に体育会系的な組織に全くなじめないのも僕がヘタレであるからだ。
強い意志を持ってひとつの目標にまっしぐらに突き進むというメンタリティを僕は持ち合わせていないし、またそれを理解できない。大義に準ずるなんてことも僕の理解の範疇の外にある。だから僕は特定のイデオロギーを信じることができない。
僕は明日のために今日は我慢するという考え方に違和感を持っている。苦しいことや辛いことを乗り越えてこそ成長するという物言いは眉唾物だと思っている。
快楽や居心地の良さ、楽しいことや面白いことにならばひたすらにそれらを追求できる。
これらも僕がヘタレであるが故である。
実は僕がヘタレであることに気付いたのは最近のことである。
若いころは自分は意志が強く責任感も強いと自己規定していたのだ。競争から脱落することをおそれてそのようにふるまっていたのかもしれない。
様々なことが重なって、僕は脱力し、実は自分はヘタレだと思い知ったのである。
僕は自分の本質的な性質はヘタレだと気付くことによって、随分と生きやすくなった。
しんどそうなことや面倒くさそうなことを頼まれてもあっさりと断ることができる。だって僕はヘタレだもの、と開き直って、他者からの高い評価を求めない。僕にとって許容範囲外の負荷がかかりそうな仕事はしない。
今では僕という人間が採るべき最も有効な生存戦略だと思っている。
僕はヘタレではあっても、相手からは可愛げのあるヘタレでありたいと思っている。
全く使えない奴だと思われるのは癪だ。できないことは多々あるけれども、ある特定の分野ではなかなかに使える奴だと思われたい。そのためには僕なりの成長のための営為を続けていく。
僕はこれからもずっと「愛されるヘタレ」となるために、ダメ人間ながらも精進を続けていきたい。