僕は何度もこのブログで自分は「ヒマ人」であると公言している。自慢しているわけではなく、ちょっとばかり自分を卑下している。と同時に「忙しいことは良いことだ」というイデオロギーに抗っている。
今でこそヒマであることを誇っている(?)僕ではあるけれども、20代・30代の頃は忙しい自慢をしていた。スケジュール帳の余白がなくなることに喜びを感じ、やるべきことでもないのに「しなくてはならないこと」だとして時間の隙間を埋めていたのだ。
ヒマそうにしている人を見聞きすると、「あの人は使えない人」だと勝手に決めつけていた。今にして思えば本当にどうにかしていたのである。
世間では、忙しい人、忙しそうにしている人が有能だとみなされている。
その同調圧力はかなり強いものがある。
多くの人たちは本当は忙しくないのに忙しいふりをしていたり、無理やり自分を忙しい状況にしていたりする。
僕は嬉々としてスケジュールを埋めて、忙しい自分に陶酔している人を何人も見てきた。それらの人たちが本当に有能だったのかといえば疑問符が付く。
僕は誰もが僕のようにヒマ人になればいいとは思っていない。僕のようなダメ人間が増殖すればこの社会は回らなくなるに違いない。
ただ、多くの人たちがそこそこスケジュールがつまっていて、適度に休みがある状態になれば、生きやすい社会になるのではと僕は思っている。ある程度の「ゆとり」や「ゆるさ」がなければ効率性も落ちるのではないだろうか。
ぎちぎちのスケジュールに振り回され、余裕をなくした常態となれば、トラブルが起きたり人間関係がギスギスしたものになって、結果として良いパフォーマンスを発揮できなくなる。
「忙しいことが良いこと」だという風潮が蔓延しているのは、「人は常に勤勉でなければならない」という勤勉至上主義イデオロギーが人々を捉えているせいだと思う。このある種の精神主義が「忙しいことは良いことだ」という風潮を作り出している要因のひとつになっている。
あるいは資本主義体制を成り立たせ、それを突き動かすドグマが「忙しいことは善」というイデオロギーもどきのものを作り出している。
忙しい人たちや忙しそうにしている人たちは、実は非効率な動き方をしているだけなのかもしれない。実は周囲からの同調圧力にさらされて、忙しい「ふり」をしているだけなのかもしれない。忙しいことに本当に喜びを感じているのはほんの一握りのワーカーホリック的な人たちなのかもしれない。
僕は根っからの怠け者なので、忙しいことをよしとしている人たちの気持ちが理解できないでいる。僕も若いころは忙しそうにしていたが、本心ではどうだかなぁと疑問を抱いていたように思う。その疑問を打ち消すためにより一層、自分を忙しくさせていた節がある。ヒマそうにしている人に対して「使えない奴」とのレッテル貼りをしていたのは、そうでもしないと自分が否定されるような気がしていたからである。
「忙しいことが善」というイデオロギーもどきはそうそうは消滅しないだろう。
この疑似イデオロギーは人を評価する基準となっている。
この強固なものに正面からぶつかっても自分が砕け散るだけである。
僕は自分がヒマ人であることを公言しつつ、細々と世間の隙間を縫って生きていくしか、今のところ手立てがない。
まあ、仕方がないか。