希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

当事者が声を上げない限り何も変わらないという件

高度プロフェッショナル制度、いわゆる高プロの導入を巡っての議論が続いている。まもなく可決される見通しだという。

僕はサラリーマンではないので直接は関係のない法案である。でも、サラリーマンの友人がいて、彼らが高プロに適用される可能性もあるので無関心ではいられない。

 

僕が気になるのは高プロを適用されるサラリーマン自身の反応が鈍いことである。今のところ年収1075万円以上のサラリーマンに適用されるらしいが、財界は年収400万円以上のサラリーマンに適用しようと目論んでいるらしい。年収400万円以上が適用対象者となると多くのサラリーマンがあてはまることになる。こうなると、一部の高所得者の話だと対岸の火事としてやり過ごすことができなくなる。

それなのに、高プロに強く反対という意思表示をしているのは学者やジャーナリスト等の「外部」の人たちばかりである。

高プロの「当事者」であるサラリーマンたちはデモもせず、労働組合を通して政府と交渉もせず、ゼネストもせず、なすがままになっている。まともな国なら、労働者に不利益を強いる制度が導入されようものなら、労働組合が旗を振って、ゼネストを決行したり大規模なデモを行ったりするはずである。

高プロにせよ、少し前の裁量労働制の適用拡大にせよ、この国のサラリーマンは何の意思表示もしていない。反対の意思表示がないということは、それらの制度を受け入れ、より一層隷属するということを認めるということである。

 

似たような事例は介護労働者にも見られる。介護労働現場の人手不足・人材不足は広く知られている。将来はもっと悲惨な事態に陥るという。さらに介護労働者の待遇の劣悪さは改善される見込みがない。労働強化が進み、かつ低劣な待遇を強いられているのに、当事者の声は弱い。

 

僕がかつて高齢者施設で働いているとき、待遇の改善、いや明らかな労基法違反が常態化していることを正せと上層部にかけあったことがある。

どうなったか。

普段は会社への不平不満を愚痴っている他の従業員が会社側に立ち、僕は孤立したのだ。そのような事態になったので、僕はその職場に見切りをつけてすぐに退社した。

介護現場の労働者の意識が特別に低いというわけではない(多少はその傾向はあるけれども)。多くの従業員は会社側に睨まれることを恐れ、自己保身に走ったのである。

僕の狭い範囲の体験だけで一般化することはできないが、当事者意識が希薄な労働者が少なからずいるということが推測できるのである。

 

直接的に強い利害関係がある当事者が声を上げなければ、現状を変えることはできない。それは高プロの話だけでなく介護現場だけの話だけではない。様々な領域に及ぶ話である。

この国では問題点を言挙げすると、似たような境遇の人たちからはしごを外され、負の同調圧力にさらされることになることが多い。現状を変えることに多大なエネルギーを要することになる。

 

当事者意識を持つことすら忌避されるような「空気」や風潮が蔓延する社会はディストピアとなる。

声を上げようものなら、足を引っ張られ、時には集団から排除されるような社会は不健全である。

同時にこのような社会は権力を有する者、社会的強者にとっては誠に都合の良い社会でもある。

当事者が声を上げない、あるいは声を上げ辛いという常態は、一歩ずつ確実にディストピアの世界へと続いている。