希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

僕は本当は貧困やひきこもりの問題を声高に主張したくないという件

僕がこのブログを書き続けているのは労働問題や貧困やひきこもり等の問題をもっと多くの人に知ってもらいたいと思うからである。

僕の弱小ブログの影響力なんてたかが知れている。

芥子粒ほどの力しかなくても、積み重ねていけば何らかの形になると信じてこのブログを続けている。

 

しかし、僕は貧困やひきこもりの問題や労働問題等について、「こんなにひどいことがあるぞ」「こんなことはおかしいぞ」と主張することにちょっとだけ疚しさのようなものを感じるときがある。

ある問題を強く主張し、その「責任者」を糾弾・追及することはその問題を可視化することである。本来ならばひきこもりも貧困も「問題」とならなくなればよいことである。

社会問題を声高に主張する人たちは無意識の裡に問題がこじれて社会を揺るがす大問題となることを望んでいるのではないか、と邪推してしまう。穿った見方をすれば、社会問題が解決してしまえば声高に主張している人たちの食い扶持やアイデンティティを奪うことになり、実はその問題の根本的な解決を望んでいないのではないかと思ってしまうのだ。

ある社会問題が存続すればするほどそれらの人たちの存在価値が高まっていくのである。

 

もちろん、社会運動をしている人たちは大多数が善意で正義感をもって活動をしている。社会問題の解決に心血を注ぎ、今よりも生きやすい社会を構築しようと懸命になっているのも理解している。

しかしながら、「正しいこと」「正義」に基づいた活動はちょっと間違うと暴走し、時には「弱者権力」みたいなものを生み出してしまうおそれがあることを知っておかなければならないと思う。

 

僕は被差別部落に関する問題にも多大な関心を持っている。あんな理不尽な差別なんか一刻も早く根絶すべきだと考えている。

全国水平社を設立する経緯、その運動に関した著書を読んでいると胸が熱くなる。他方、「同和利権」を漁るような運動体の腐敗には強い憤りを感じる。生存のための闘争、人間の尊厳を守るための闘争には強く共感するけれども、運動体が大きくなりその組織存続のためだけの運動や利権漁りには強い拒否反応を示す。

同和団体のことに限らず、何らかの社会問題を解決するための活動にはこういった類の話はよくあることである。

 

僕はひきこもりや貧困の問題には自分なりにコミツトしたいと思っている。元々の専門だった労働問題についてはもっと突っ込んだ関わりを持ちたいとも思っている。これらの問題を他人任せにしておいて、自分は「外」に身を置いて高みの見物を決め込む、といった態度は取りたくない。けれども、バリバリの「活動家」になりたいとも思わない。僕の心のどこかに問題に深入りすることへの違和感が棲みついている。この違和感がどこからきているのか、僕にははっきりとは分からない。もしかすると、このエントリーのはじめのところで述べた社会問題を声高に叫ぶことの「疚しさ」がこの違和感に関係しているのかもしれない。

 

貧困やひきこもりの問題や労働問題は僕の「身近にある問題」であり、僕は自分の身を守りたいがためにこれらの問題についてコミットしているのである。利己主義的であることは否めない。この社会を変えてやろうという壮大なビジョンなど持ち合わせていない。ただ、自分の手の届く範囲にあることをひとつひとつ解決することが「蟻の一穴」になる、という確信は持っている。

僕はこれからも「小さな声」を上げ続けていきたい。