希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

効率性・生産性重視の世の中に僕はついていけないという件〈再掲〉

生産性やコストパフォーマンスばかりを求められる風潮に僕は抗いたい。

ビジネスの論理がそれになじまない医療や福祉あるいは文化芸能にまで及んでいることに苛立ちを覚える。ビジネスの論理は限定的にしか適用できないものである。

 

初出 2017/11/7

 

僕は経済成長を至上の価値とする価値観になじめない。

「カネがすべて」というイデオロギーにもなじめない。

これらのイデオロギーが正しいとされる社会では効率性を追求される。カネ儲けに直接役に立たなそうに見える知識やスキルは無用のものとされがちである。

 

僕は20代、30代の頃は常に効率性を追い求めていた。いや、そうでなくては競争に負けてしまい「負け組」に転落すると思い込み、何かに急き立てられていたのだ。

勤め人の時もフリーランスで仕事をしている時も、効率性を高めることが成長につながると思い込んでいた。自分を成長させようとしない人たちはクズだと切り捨てていたのである。この成長という概念もいかにカネが稼げるか、仕事ができるかというように限定された範囲でとらえる視野狭窄に陥ったものだった。

結果、終わりのない先の見えない競争に疲れ、僕は真っ当とされる社会のレールから逸脱してしまったのである。

 

効率性ばかりが求められる社会では、経済成長に直接資することのない様々なものが軽視され排除される。何でもカネに換算され、カネに換算されないものは無用のものとみなされる。

均一化された度量衡によって計られるもの、例えば経済指標や会計上の帳簿等によって目に見える数字だけが独り歩きするようになる。人は目に見える数字に縛られ、その数字を上げるためだけに存在する駒のようになってくる。

 

僕たちは経済成長の駒となるためだけに生きているのだろうか。

カネを稼ぎ、消費するためだけに生きているのだろうか。

おそらくこのような根源的な問いは今の世の中では無意味なものとされるだろう。

こんな問いを発する時点で、そのような人はこの社会では足手まといな存在に堕することになる。そして効率性重視の社会ではこの手の足手まといな人たちは生きる場所を狭められるかあるいは生きる場所そのものが存在しない、ということになる。

 

効率性や生産性を高め続けて、その先には何があるというのだろう。

モノが溢れて、過剰なサービスが溢れる物質的に「豊かな社会」となり、人々はその豊かな社会で幸せな消費者となるのだろう。現に今はその意味での豊かな社会を実現している。そして更なる豊かさを追求し続けている。

この国は少子高齢社会となり人口減に見舞われている。これ以上の経済成長は見込まれない「縮小社会」となっている。この現状から僕たちはいかにして縮小社会の中でひとりひとりがその人なりの豊かさを享受するか、という考え方に軸を変えなければならないはずである。いつまでも経済成長至上主義イデオロギーに囚われていてはだめなのである。同時に効率性や生産性が高いことが善、というイデオロギーも無効化されるものである。

 

効率性を重視するイデオロギー埒外で僕は生きていきたいと願っている。

近い将来、効率性の高さを競わない社会、あるいはそのような共同体が出現するという淡い期待を抱いている。

僕のようなダメ人間でも、社会の隙間に居場所がある、そのような社会になればいいと切に願っている。