希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

僕はたまたま恵まれた環境にいて、生き延びてきたという件

僕はそこそこに運がいいと自覚している。

また、そこそこ恵まれた環境に身を置き続けていると自認している。

真っ当とされるレールから外れた生き方をしてから久しいが、何とか生きている。

ちょっとしたボタンの掛け違えで路頭に迷っていただろうと、振り返ってみてそう思う。

 

僕は不登校や引きこもりに似た経験をしている。

今も半分はひきこもり、ニート状態ではあるけれども、生きていくには最低限の稼ぎを得ることができている。

ドツボに嵌らなかったのは(今後どうなるかは分からないけれど)、たまたま運が良くて周囲の人たちの手助けを受けることができたからだ。自分の努力や資質の賜物だなんて思いあがった考えはとても持つことができない。

 

真っ当に自立して生きていると自負している人たちは、そのように恵まれた状況に自分がいる要因をどのようにとらえているのだろうか。

おそらくほとんどの人たちは自分の努力のおかげだとか能力を持っていたからだとか勘違いしているのだろう。

この世の中で何不自由なく生きている人たちはたまたま運が良くて環境に恵まれていただけに過ぎない。ちょっとしたきっかけで困難な状況に陥り、生活に支障来すことになっていたかもしれない、との想像力に欠けている。「明日は我が身」という想像力に欠けている。

ひきこもり、ニート、貧困に陥った人たちをバッシングし白眼視し、あるいは自分とは無関係だとして排除するメンタリティは愚かだとしか言いようがない。

 

僕は順風満帆に生きてきたわけではない。

不登校になった、雇われて働くことに馴染めなかった、自営業に失敗した、うつになった、ひきこもり同然になった、と躓いてばかりいた。

僕が途方に暮れていた時、いつも誰かが助けてくれた。僕の普段の行いが良いわけではない。普段の行いなんて関係ない。ただ、ただ、僕は運がよくて恵まれていただけなのだ。

 

僕は今、自分が恵まれた状況にいることに甘えている。いつか手痛いしっぺ返しを喰らうことになるかもしれない。

でも、それほど悲観はしていない。

次にまた困難な状況に陥ったときにはどこかから、誰かから救いの手をさしのべられるであろう、と何となく思っている。これを甘いと言う人がいるだろう。世の中そんなに甘くないと言う人もいるだろう。

「世の中、そんなに甘くないことはない」というのが僕の考えだ。

血の滲むような努力なんかしなくても、自分ができ得る限りの自助努力をし、後は天命を待つといった態度でいれば何とかなる、と思っている。

 

自分は自分ひとりだけの力だけでは生きていけない。

このことさえ忘れなければ、何とかなるはずだ。