強い組織とはどのような組織なのか、ということは昔から様々な言説が飛び交っている。今でもビジネス書の大きなテーマとなっている。
組織論にも流行り廃りがあり、今では信じられないことだが1970年代から80年代の頃は均質的な日本の会社組織が「強い組織」だと喧伝されていた。
高度経済成長の頃の日本の会社組織が強みを発揮したのはある程度事実であろう。
社員の会社に対する高い忠誠心や突出した人もいなければ落ちこぼれもいないひと固まりとなった集団主義的行動様式は、大量生産方式の工業社会では有効なものだったのだ。多くの会社では社員が一致団結してわが社を大きくすることを目的として邁進していたのである。
ひとつの価値観を共有し、成員が結束した組織は強いと見做される。実際にチーム・スポーツにおいては強いチームは組織の結束力を前面に出すことが多い。
実はここに落とし穴があるのではないだろうか。
強いチームをよくよく見ていると、様々なキャラクターを持ったメンバーが自分の役割を十分に理解したうえで自分の役割を果たすことによりそれが結果としてチームプレイとなり、強いチームを成り立たせている。決して個々の成員が均質化されていないのである。
この国の多くの会社では個を組織に埋没させることと社員の画一化が組織の強化につながると錯覚しているきらいがある。組織の成員の個々の個性がぶつかり合っての「一枚岩」を志向するのではなく、個々の成員を没個性化して均質的な一枚岩の組織を作ることが強い組織を作ることだと思い違いをしているのである。
創業間もない会社はなかなか良い人材が集まらない。どうしても雑多な人たちが寄り集まることになりがちだ。例えば学校の後輩であるとか、自分や配偶者の親族だとかを呼び寄せたりする。そして運よく会社組織が大きくなると、外部の人材を中途採用や新卒採用で埋めることができるようになる。会社の組織が大きくなればなるほど、採用活動はサラリーマンである人事採用担当者が担うことになり、採用される人材の均質化や画一化が進むという現象が起きることになる。創業当初のダイナミズムが失われ、俗に言う大企業病に陥ってしまう要因となる。
組織の規模を国家に拡大してみても、画一化された価値観を強要し、国民を均質化しようとする試みは無残な結果になることは歴史が証明している(ファシズム国家や社会主義国家が典型例である)。
月並みな結論になってしまうけれども、やはり多様性が担保されないと強い組織は作れないのである。
この社会においても、「変わった人」を排除してはならないし、違った価値観を持った人を認めなければならないのである。
皆が皆同じ方向を向いている社会・組織は危ないぞ、と常に意識しておかないと悪い方向に流される危険性が高まることになる。