僕は子どもの頃から周囲から変わり者と見られている友人が多かった。
ちょっと変わり者の友人と付き合うのには骨が折れることもあったが、なかなか面白かった。
今でも僕は変わり者と呼ばれている人が好きである。
初出 2017/10/30
僕は自分自身のことを至って普通で平凡な人間だと思っている。突飛な発想なんてできないし強い個性があるわけでもない。
僕は子どもの頃から、人とちょっと違った考え方や行動をする人たちに憧れていた。周囲から少々煙たがられている(変わった奴だと見られている)ような人と友だちになることが結構あった。
今から思えば、変わり者の友達から得たもの、今の僕のメンタリティを形成するベースとなったものが多い。
中学の時に仲の良かったA君はやたらとアニメに詳しかった。彼は殆ど友だちらしい友だちがいなくて孤立しがちだったが、ひょんなことから話をするようになり、僕と友だちになった。彼から『ガンダム』が面白いと聞き、観始めるようになった。僕は今でもガンダム・フリークである。
B君は僕に小説を読む面白さを教えてくれた。僕はそれまで親が買ってくれた少年少女文学全集に収録されている古典的な物語を読んでいたが、現代日本の小説は殆ど読んだことがなかった。彼は僕に筒井康隆や星新一が面白いぞ、と教えてくれ、一時期僕は両者の小説に嵌ったのだった。この経験が僕を活字中毒者へと導いたのである。
奇人変人とみなされる人たちは一筋縄ではいかないパーソナリティを有していることが多い。なかなかに付き合い続けるのも大変ではある。しかしながら、付き合っていると面白いことに出くわす。
彼らの常人離れしたものの見方や価値観にふれることは自分自身の殻を破ることにつながることがある。「みんなと同じようにしろ」という同調圧力に抗ってもいいのだとの気づきを得ることができた。
僕は今も周囲から変人と見られている友人が何人もいる。当然のことながら、彼ら彼女らは真っ当な勤め人ではない。中には未だに何をして稼いでいるのかよく分からない人もいる。常道から外れた生き方をしている人ばかりなのである。だからこそ、付き合っていて面白くて楽しい。
僕の「ちょっと変な」友人たちとは付かず離れずの関係を保っている。
そんなにしょっちゅう会って話す必要はないのだ。時々ふと思い立って会う。
たとえ数年間のブランクがあっても全く問題はない。以前と同じようにフレンドリーであり、訳の分からないこと(と他人が感じるようなこと)をワーワー言い合って楽しんでいる。あるいは自分たちが世間の中でマイノリティであることを自覚し、自然と連帯感が育まれているのかもしれない。
僕はこれからも「ちょっと変わった」人たちとの新たな出会いを楽しみにしている。
「ちょっと変わった」友人たちとの関係をずっと続けていけたらいいなと切望している。彼ら彼女らは間違いなく僕の宝物である。
「ちょっと変わった」友人たちさえいてくれれば、僕は生きていける。